伯爵令嬢は公爵様と恋をする
Vol.5
イリーネ様がいなくなった居間は、ゆったり沈み込むような静けさに包まれていた。
次第に頼りなくなる月明かりはまるで私の心を表わしているようで、徐々に居た堪れなくなってくる。
背後から抱きしめてくださっていた公爵様は…ええと、ディートリヒ様は、そっと腕を解放して私の手を取ると軽く立ち上がらせてくれた。
そのまま椅子へ導かれる。
心なしか満足げに、揺れるドレスを眺めているディートリヒ様は、裾が皺にならないように、それでいてそんな気遣いなど微塵も感じさせないほど自然な流れで座らせてくれた。
こんなに丁寧に扱われたら、世の女性たちが彼に夢中になるのも分かる気がする。
彼は多分幼いころから徹底した紳士教育を受けてきたのだろう。
無駄のない洗練された動きと、雰囲気とは裏腹な優雅な仕草にどきりとしてしまう。
いつの間にか用意されていた紅茶を勧める仕草さえ、まるで絵本の王子様そのものだった。
彼は私の斜め前に腰かけると、小さく見えるカップを傾けて口をつける。
見ればカップの中身は一瞬でなくなっていた。
そんなに喉が渇いていたのかと思っていると、不意に深い青をした瞳がこちらを捉えている。
まるで心の奥底まで見透かされてしまうような、そんな鋭い視線。
「聞きたいことがあるなら聞くといい」
嘘も誤魔化しも許されないような口調だ。
こんなふうに威圧感たっぷりに言われれば、どんな女性もたちまち逃げてしまうだろう。
もしかしてパーティーのように明るい席でも、同じように女性と接していたのだろうか。
きっと夢見心地の幸せな気分も吹き飛ぶことだろう。
けれど今の私は彼女たちとは違って、心が音を立てることはあっても浮足立っているわけではない。
しかも聞きたいことなら山のようにある。
だから私は彼の言葉に甘えることにした。
「どうしてディートリヒ様は、私を助けてくださるのですか?」
一番の核心を突く問いを投げれば、彼は驚いたように少しだけ目を見開いた。
それからすぐ元に戻ると、幾分和らいだ視線が送られる。
「貴女を、手に入れるためだ」
発せられたのは、そんな意味深すぎる言葉だった。
私を、手に、入れる?
「アウラー男爵の心配はいらない。貴女の抱えた借金も全額返済したし、婚約も白紙に戻した。実家のお屋敷も既に買い戻してある」
一体いつの間に?
この短期間でそれだけのことをやってのけていたなんて。
確か夕方まで男爵は我がもの顔であのお屋敷に来ていたはず。
「…まあ、こちらから一方的に手筈を整えたわけだから、彼が納得しているとは思えないが、覆す力はないだろう」
「待ってください」
「?」
「あの膨大な借金を肩代わりするなんて、一体どうして?」
「借金がある限り貴女は囚われの身だ」
「それでも、ディートリヒ様にそんな風にしていただく理由がございません」
「理由ならある。貴女を手に入れたいからだ」
「どうして?」
「貴女を妻に迎えるために」
「だから、どうして?」
「花嫁にするなら貴女だと決めていた」
「決めていた?どうして?」
「…それは…貴女がちょうどいいからだ」
言い淀みながら紡がれたのはそんな拍子抜けする理由。
ちょうどいいって…それだけであんな面倒な男の相手をし、大金をポンと支払ったと?
しかも、だから、何がどうちょうどいいのか分からない。
いつから私を花嫁に決めていたの?
私たちは一度も会ったことがないのに。
お互いを見かけたことぐらいはあるかもしれないけれど、直接顔を合わせたことは一度もない。
第一いつ見ても女性に囲まれてばかりいたディートリヒ様に近付けるわけがない。
言葉を交わしたこともないのに、どうして私を妻に望むの?
納得のいく答えが欲しくて青い瞳を見つめた。
何もかも飲み込んで、包み込んでしまいそうな瞳。
それは秘めた熱を孕んでいるようにも見えて、私の心を震わせる。
いけない。
このままじゃ吸い込まれそう。
理由なんてどうでもよくなってしまいそう。
でもそれじゃダメなの。
「ディートリヒ様、私は財産もないしあなたのために役に立てられるものがありません。何もないんです。そんな私に何ができますか?あなたの妻になったとして、一体どうすれば?」
あなたが「妻」に望むものが何なのか知りたいの。
欲しいのは「妻」?
それとも…。
問いかける私をどう受け止めたんだろう。
彼は小さく吐息を零した。
僅かに口角を上げて。
「何もなくていい」
「?」
「借金を返済して、婚約もなかったことにして、貴女は私の元に来た。それ以上に何がいる?あなたが妻になってくれればそれで十分だ」
酷く落ち着いた声でそう告げる。
つまりそれは、借金を返す代わりに妻になれということ?
「妻」がいればそれでいい、ってこと?
それ以上の理由はない、と…?
「私はあなたの妻であればいいのですね…?」
「そうだ。そのために全て整えた。決して不自由はさせない」
「…だから、妻になれと、そういう事ですか…」
何もない私だから、簡単に利用できると思った…?
理解できた途端、胸が苦しくなる。
鷲掴みにされて、握り潰されるような痛み。
一体何を期待していたんだろう。
馬車でのキスがあったから、図々しくも期待してしまったんだわ。
彼が「私」を求めてくれていると。
そんなことあるわけないのに。
もちろんあのままでいるよりずっといいけれど、これからどうすればいい?
結婚さえしてしまえば「妻」でいることは簡単なこと。
自動的にそれは手に入れることが出来るから。
でもその後は?
世間一般で言う所の妻の「役目」を果たせばいいの?
夫を支えて子孫を残して、それで終わり。
だけどいつか彼が本当に愛する人が現れたら、どうなる?
その人が彼の子供を産めば、形だけの妻なんて必要ない。
いずれ私は必要なくなる。
そういう、こと。
「エルフリーデ…?」
深みを増した青い瞳がこちらを覗きこむ。
あなたは敵なの?味方なの?
次第に歪み始める彼の瞳は、急に慌てふためき始める。
混乱する頭ではうまく考えることもできなくて、ただ込み上げてくる涙が頬を伝った。
それを拭ってくれようと大きな手が伸ばされたけれど、思わずパシリと払いのけ、ガタリと大きな音を立てて後ずさるように私は立ち上がった。
見えたのは困惑したような彼の顔。
「やめてください。触らないで」
「!?」
「私はあなたの妻にはなりません。借金だって自分で返します!…放っておいて…!!」
初めて口にした拒絶の言葉は、やたらと脳裏に響き渡っていた。
続く
イリーネ様がいなくなった居間は、ゆったり沈み込むような静けさに包まれていた。
次第に頼りなくなる月明かりはまるで私の心を表わしているようで、徐々に居た堪れなくなってくる。
背後から抱きしめてくださっていた公爵様は…ええと、ディートリヒ様は、そっと腕を解放して私の手を取ると軽く立ち上がらせてくれた。
そのまま椅子へ導かれる。
心なしか満足げに、揺れるドレスを眺めているディートリヒ様は、裾が皺にならないように、それでいてそんな気遣いなど微塵も感じさせないほど自然な流れで座らせてくれた。
こんなに丁寧に扱われたら、世の女性たちが彼に夢中になるのも分かる気がする。
彼は多分幼いころから徹底した紳士教育を受けてきたのだろう。
無駄のない洗練された動きと、雰囲気とは裏腹な優雅な仕草にどきりとしてしまう。
いつの間にか用意されていた紅茶を勧める仕草さえ、まるで絵本の王子様そのものだった。
彼は私の斜め前に腰かけると、小さく見えるカップを傾けて口をつける。
見ればカップの中身は一瞬でなくなっていた。
そんなに喉が渇いていたのかと思っていると、不意に深い青をした瞳がこちらを捉えている。
まるで心の奥底まで見透かされてしまうような、そんな鋭い視線。
「聞きたいことがあるなら聞くといい」
嘘も誤魔化しも許されないような口調だ。
こんなふうに威圧感たっぷりに言われれば、どんな女性もたちまち逃げてしまうだろう。
もしかしてパーティーのように明るい席でも、同じように女性と接していたのだろうか。
きっと夢見心地の幸せな気分も吹き飛ぶことだろう。
けれど今の私は彼女たちとは違って、心が音を立てることはあっても浮足立っているわけではない。
しかも聞きたいことなら山のようにある。
だから私は彼の言葉に甘えることにした。
「どうしてディートリヒ様は、私を助けてくださるのですか?」
一番の核心を突く問いを投げれば、彼は驚いたように少しだけ目を見開いた。
それからすぐ元に戻ると、幾分和らいだ視線が送られる。
「貴女を、手に入れるためだ」
発せられたのは、そんな意味深すぎる言葉だった。
私を、手に、入れる?
「アウラー男爵の心配はいらない。貴女の抱えた借金も全額返済したし、婚約も白紙に戻した。実家のお屋敷も既に買い戻してある」
一体いつの間に?
この短期間でそれだけのことをやってのけていたなんて。
確か夕方まで男爵は我がもの顔であのお屋敷に来ていたはず。
「…まあ、こちらから一方的に手筈を整えたわけだから、彼が納得しているとは思えないが、覆す力はないだろう」
「待ってください」
「?」
「あの膨大な借金を肩代わりするなんて、一体どうして?」
「借金がある限り貴女は囚われの身だ」
「それでも、ディートリヒ様にそんな風にしていただく理由がございません」
「理由ならある。貴女を手に入れたいからだ」
「どうして?」
「貴女を妻に迎えるために」
「だから、どうして?」
「花嫁にするなら貴女だと決めていた」
「決めていた?どうして?」
「…それは…貴女がちょうどいいからだ」
言い淀みながら紡がれたのはそんな拍子抜けする理由。
ちょうどいいって…それだけであんな面倒な男の相手をし、大金をポンと支払ったと?
しかも、だから、何がどうちょうどいいのか分からない。
いつから私を花嫁に決めていたの?
私たちは一度も会ったことがないのに。
お互いを見かけたことぐらいはあるかもしれないけれど、直接顔を合わせたことは一度もない。
第一いつ見ても女性に囲まれてばかりいたディートリヒ様に近付けるわけがない。
言葉を交わしたこともないのに、どうして私を妻に望むの?
納得のいく答えが欲しくて青い瞳を見つめた。
何もかも飲み込んで、包み込んでしまいそうな瞳。
それは秘めた熱を孕んでいるようにも見えて、私の心を震わせる。
いけない。
このままじゃ吸い込まれそう。
理由なんてどうでもよくなってしまいそう。
でもそれじゃダメなの。
「ディートリヒ様、私は財産もないしあなたのために役に立てられるものがありません。何もないんです。そんな私に何ができますか?あなたの妻になったとして、一体どうすれば?」
あなたが「妻」に望むものが何なのか知りたいの。
欲しいのは「妻」?
それとも…。
問いかける私をどう受け止めたんだろう。
彼は小さく吐息を零した。
僅かに口角を上げて。
「何もなくていい」
「?」
「借金を返済して、婚約もなかったことにして、貴女は私の元に来た。それ以上に何がいる?あなたが妻になってくれればそれで十分だ」
酷く落ち着いた声でそう告げる。
つまりそれは、借金を返す代わりに妻になれということ?
「妻」がいればそれでいい、ってこと?
それ以上の理由はない、と…?
「私はあなたの妻であればいいのですね…?」
「そうだ。そのために全て整えた。決して不自由はさせない」
「…だから、妻になれと、そういう事ですか…」
何もない私だから、簡単に利用できると思った…?
理解できた途端、胸が苦しくなる。
鷲掴みにされて、握り潰されるような痛み。
一体何を期待していたんだろう。
馬車でのキスがあったから、図々しくも期待してしまったんだわ。
彼が「私」を求めてくれていると。
そんなことあるわけないのに。
もちろんあのままでいるよりずっといいけれど、これからどうすればいい?
結婚さえしてしまえば「妻」でいることは簡単なこと。
自動的にそれは手に入れることが出来るから。
でもその後は?
世間一般で言う所の妻の「役目」を果たせばいいの?
夫を支えて子孫を残して、それで終わり。
だけどいつか彼が本当に愛する人が現れたら、どうなる?
その人が彼の子供を産めば、形だけの妻なんて必要ない。
いずれ私は必要なくなる。
そういう、こと。
「エルフリーデ…?」
深みを増した青い瞳がこちらを覗きこむ。
あなたは敵なの?味方なの?
次第に歪み始める彼の瞳は、急に慌てふためき始める。
混乱する頭ではうまく考えることもできなくて、ただ込み上げてくる涙が頬を伝った。
それを拭ってくれようと大きな手が伸ばされたけれど、思わずパシリと払いのけ、ガタリと大きな音を立てて後ずさるように私は立ち上がった。
見えたのは困惑したような彼の顔。
「やめてください。触らないで」
「!?」
「私はあなたの妻にはなりません。借金だって自分で返します!…放っておいて…!!」
初めて口にした拒絶の言葉は、やたらと脳裏に響き渡っていた。
続く