死使
「無理だ。これは決められたことだ。第三者が関与している場合は不可能だ。それがルールだ。この場合だとナイフを持った男の憎しみが、死にたくない、を上回っている。君の場合は、死にたい、というよりも、生きたい、のが強かった。この差は非常に大きい。死にたければ、わざわざ踏切に飛び込む必要なんてない。自分の家から飛び降りればいい。だが、それをしなかった。なぜなら、君にはためらいがあったからだ。が、この状況はそうもいかない。憎しみのが強い。救うことはできない。それがルールであり天界の掟だ。ルールを破るものは罰せられる。それは人間界でも同じだろう」
 それは法律のことを言ってるのだろうか。たしかに法律は絶対だ。それを犯すことは罪に問われる。しかし目の前で逃げ惑う人を見過ごすことこそ罪なのでは。
「ルール、ルールって、私はここに来たばかりなんだから知らないわよ。そんなこと。ルールは破るためにある。私を救ったなら、目の前で本当に困っている人を助けなさいよ。それができない男なんて、臆病者よ」
 私を息を切らせながら言った。人との衝突が怖く、臆病者なのは私。当たり障りのない言葉を放って、その場しのぎ。だから顰蹙を買う。いじめに遭う。自分が可愛い。だから傷つかないように殻を被る。でも、実際は衝突して、近づいて、衝突して、本音でぶつかりあった方が、もしかしたら本当の友達や、恋人や、家族とも向き合えるんじゃないかな。それをなんで目の前の男に息巻いたぐらいで、感じ取ることができるんだろう。私って、本当にやることなすこと、遅い。
 シシは何も言わない。考え事をしている。正方形パネル画面では、女の子が壁際に追いつめられた。
「ルールを破ると、僕は監獄で拷問を受ける。それは嫌だ。痛そうだし」
 シシは腕を組みながら言った。その姿が妙に様になっているから、むかつく。黒縁眼鏡でも掛けたら、インテリ道まっしぐら。それが尚、むかつく。
「非常識が常識になる。そして常識は元を辿れば非常識だった。お分かり?」
 私は、そのまま続けてレッスン1、と言いそうだった。いつからイングリッシュティチャーもどきになったのか、と苦笑する。
「それはこういう意味かな。ルールを変えるために僕が犠牲になれと」
 シシの真摯な眼差しに私の全身は射抜かれる。男の人って急に純粋無垢な目で女性を見る。あれは魔香であり、見えないフェロモン。
「そういうことよ」
「なるほど。面白い」と言い、「ここに来れるのは一人だけだ。彼女を救ったら君は人間界に戻ることになる。大丈夫か?」
 シシの言葉に私は俯き、黙る。過去を回想する。いじめられていた日々。塞ぎ込んだあの日。耐えきれなくなり踏切に歩みでた人生。それでもまだ私は生きている。なら、生きる。生きたい。私はシシを見た。
「いい目だ。生命は目に宿る。意志は目に宿る。希望は目に宿る。その光の連鎖が幸福に導く。さあ、行こう」シシは手を差し出した。私は駆け足で彼の温かい手を握った。そして、視界が暗くなった。
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