LAST SEX
春とはいえ夜は寒い。こんな日はおでんがいい。女二人なのだから、小洒落た店でも良いのだが、香織も『私』も、この小さなおでん屋さんの味が大好きだったのだ。カウンターとその背中に、座敷があってテーブルが三つならんでいるだけの古びた店。十年前に、リフォームしたらしいが、残念ながらその努力はあまり残っていなかった。それでも、大将とおかみさんの人柄も勿論、味は天下一品のおでんだから、平日でも満席だった。

「ごめん、ごめん。大学出るの遅くなっちゃって」
「こっちこそ、申し訳ないないです。急に誘って」

ベージュの スプリングコートを脱ぎながら、香織の横に座る。カウンターの席を確保していてくれたのだった。

「先に呑みもの注文しちゃいましょ?」

そう言う香織はすでに、ジョッキが空になっていた。私は酎ハイとおでんの具を三種類注文した。香織もそれに、続いてお代わりと、おでんの追加をする。

「呼び出しはなさそう?」
「こないと思います。ってか休ませてって感じですよぉ」
「だよね。私はないはず。うん。明日は病院じゃないし」

『私』達は大学で、研究をしている。研究しているだけで臨床で仕事をしているわけではないので、大学と繋がりのある病院で、雇われ医者をしないと生活が出来ないのである。その雇用契約は一年で、行き先は毎年変わる。大学の偉い人がこっちの都合も聞かずに、今年はどこそこの病院に行きなさいと、通達が来るのだった。
香織は循環器外科が専門で、『私』は消化器内科が専門だ。研究している大学は同じだが、殆ど顔を合わせたことがなく、今年になって今の雇われている病院で知り合ったのだった。女の医者が重なることは、滅多になかったので、仲良くなるには時間を要さなかった。

「もうオフですよ。スイッチ切り替えましょうよ」

香織はその小さなお尻をちょっとだけ横にずらし、椅子に座り直す。

「了解。で、彼氏と別れたって?」

香織はその時丁度運ばれてきた、モスコミュールを受け取った。

「そう。神戸に来てくれって」

『私』も酎ハイを受け取る。グラスがよく冷えていた。

「プロポーズじゃないの?」
「無理ですよ。あっちは、もう三十なのに、仕事も何度も変わってるんですよ」

香織はモスコミュールを一口呑み込んで、薄いなと小さく呟いた。

「同業者じゃないんだっけ?」
「そう。自称ミュージシャン。笑えへん?」

香織は困ったようにクスクスと笑う。

「夢を追ってるって言い続けてるタイプなの?」
「どうなんでしょうね。それを辞めて実家に帰るから、着いてこうへんかって」

おでんの皿が元気なおかみさんの笑顔と共に運ばれてきた。人参も美味しいよ、とおかみさんは言う。香織はじゃあ私にそれをと、応えた。

「神戸だっけ?嫌なの?」
「結局、私が養うことになりそうで。私、今年三十ニですよ?子どもが欲しいんです。でも、あの調子じゃ、生活出来ない。私が働かないと。働くのは嫌っていってるじゃないですよ?ただ、研究がしたいんです。臨床は苦手やもん」

香織は愛媛県出身だそうだ。しかし、大学が神戸だったこともあって言葉に関西訛りが残っていた。

「今更、大学を辞めて雇われ医者したくない。忙しすぎてきっと死んじゃう」

結婚したいし、子どもも欲しいと香織は続ける。理想の家庭もあるという。

「ぶっちゃけ、やっぱりネームバリューですよ。旦那さんの職業って重要」

香織は少し酔ってきたようで、饒舌になってきた。私はよく味の染み込んだ大根を、口に含みながらウンウンと聞いている。

「私ですね、実家が貧乏なんです。父親が最低で。って言っても離婚してるるんですけどね。だから、なんとしてでも、医者になろうって思ったんです。勿論、奨学金使ったし、バイトもなんでもやった」

香織はふっとため息をつく。そして、視線をカウンターのメニューに移す。

「別れた彼は、バイトの居酒屋で知り合ったんです」

裕福に大学に通っていた同級生とは違い、なりふり構わず勉強とバイトに明け暮れていた自分に、唯一優しくしてくれた男性だったけれど、夢を追いかけすぎているということ、別れた時に別れるのは嫌だと泣かれれたこと、自分との格差を意識してしまったことを話してくれた。

「彼のことだけじゃないんです。それにですね、うちに母親は別れたくせに、父親に未練があって、お金を全部父親に使うんです。うち、高校生の弟がいるんだけど、全部学費は私。それで、学校も行きたくないって言い出して、母親パニックって。実家に戻ってきて、医者なんだから、お金あるでしょだって。所詮バイト医者。思っているより稼ぎなんてないのにね」

なにもかも嫌になったと話す香織は、酔っているようにも見えたし、そうではないようにも見えた。
『私』の周りは、離婚した人や家庭に問題がある人や、男運がないような友人や知り合いが多い。類は友を呼ぶというが、本当にそんな気がした。勿論、『私』も例外ではなく同じような境遇だ。

「辛いね」

そんな一言をかけながら、『私』は結婚していた時の地獄のような生活を思い出していた。

「だから、もうこれで終わりにしたいんです」

香織はおでんの玉子を頬張る。

「しょろ‥しょろです‥ね」

口をいっぱいにしながらも、一生懸命喋る香織は可愛かった。

「食べてからでいいよ」

『私』は呆れたように笑う。香織は熱っといいながら、玉子と戦っていた。

「自分の幸せを求めてもいいでしょー」

ようやく玉子との戦いを終え、良しと小さくガッツポーズをした。そして、にっこり微笑むと、おかみさんに
こんにゃくを追加注文した。

「そうだよ。そそ。幸せにならなきゃね」

『私』は香織の肩をポンっと叩いた。

「奈美恵さんは良い人いないんですか?まだまだこれからでしょ」

『私』が離婚した理由を知っている香織は本気でそう思っていうのか、社交辞令なのかは分からない。ただ、それは他人事のように『私』の宙を舞った。

「はは。だといいけどね。バツイチで子どもいて、四十も近い女なんて重いだけ」

そんなことないのにっと香織は笑う。本当にそうだといいけど、現実には、それは難しいと感じる。年齢もあるけれど、子どもまでいては、なかなか首を縦に振らないだろう。だいたい子どもがいると聞いて、逃げるような男はこちらからご面倒だ。
それが男女逆の立場だとまた違う。女は好きになった男に子どもがいても、気にしない女の方が多いと思う。
それは、男性社会優位な社会のシステムによる経済力の差がまだあること。そして、女は感情の生き物であるからだと『私』は思っている。つまり、好きな男に子どもがいても、好きな男の子どもごと愛せる精神が、男性よりも、優れているからだと思うのだ。とはいいながら、そこには打算が含まれているとも思っている。
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