RED ROSE
過去


 忘れた訳ではない。美玲はしっかりと覚えていた。大翔のその言葉を覚えていた。あの言葉は、友達と交わす朝の挨拶のように簡単に忘れてしまえるような言葉ではない。むろん、想いを拒絶された時に聞いたからではない。

 “前科者の殺人犯”――。人を殺した事があるという意味を持つその言葉を、忘れられる訳がなかった。ただ、こうして一緒に暮らしている今、償っているものだと勝手に思い込んでいた。それだけだった。

「殺した相手を、忘れない為――?」

 心臓の揺れを抑えつつそう呟くと、大翔は黙ってうなずいた。大翔の瞳から滲み出した闇に飲み込まれ、うまく呼吸ができない。しかし、何かを口にしたくて必死に唇を動かしてみる。だが、それ以上何を言えばいいのか、美玲には判らなかった。やがて、大翔が背を向け、自分の部屋へと入って行く。薄くて安っぽい木製のドアが部屋の内から外へと動き、細い背中が一瞬見えた後、ぱたりと音をたてて空気が一瞬遮断される。と、その瞬間、まるで糸が切れた人形のように、美玲は床に崩れた。

 何を夢見ていたんだろう。そんな思いが小さな胸に去来する。途方もなく、泣きたい気持ちになった。

 大翔との同居で、あの家から逃れられたという解放感と彼への恋心。その二つが頭の中を占め、浮かれていた事実に気付く。

 思えば大翔はいつだってどこか感情を圧し殺し、穏やかに冷静でいる事を心がけている気がした。それは元々の性格ではなく、自分が過去に“人を殺した”事が起因してのものなのかもしれない。いや、多分、そうなのだろう。美玲はそう思った。

 ――ずっと、こうなのかも……。

 決して拒絶された訳ではないのに、そんな気持ちが強く胸に溢れ、美玲は思わず唇を噛んだ。




 柔らかな唇と少し小さな胸。彼女に大翔が初めて触れたのは、まだ、高校生の頃だった。

 交際半年目に迎えた自分の誕生日。その日、二人は互いに嘘をつき、二人きりでの旅行を実行していた。周囲に目撃されるのを極力避ける為、電車の中で待ち合わせ、街外れのペンションへと向かった。

 チェックインを済ませた後、レンタサイクルで周辺を探索し、夕食後にはペンション周辺の自然を手を繋いで散歩しながら楽しんだ。知り合いが誰もいないという安心感が二人の気持ちを開放的にしていたのは確かだった。とても、楽しくて、陽射しも彼女の笑顔もとても眩しかった。この幸せがずっと続けばいいと、その時、大翔は心から願った。そして、彼女も同じ気持ちであると疑わなかった。本当にずっとずっと、こんな暖かな気持ちが続けばよかった。しかし――。
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