RED ROSE
伸ばした手


 朝になっても大翔の耳には、美玲の声が残ったままだった。

『助けて……』

 小さな声だったが、確かに耳にしたあの波長。あの時、音は空気を伝わり、確かに大翔の鼓膜を震わせた。

 ――助けて。

 気にしても仕方ない事は判っていたが、気になった。しかし、何もできないのが現実だった。

『助けて……』

 いつかは気にならなくなるだろうと気持ちに折り合いをつけ部屋を出る。最寄り駅へと向かい、ホームで電車を待っていると、制服の集団がわらわらとホームに姿を現し、どこか張り詰めた朝の空気を一気に賑やかしいものへと変えてしまった。

 カッターを着崩し、三番目までボタンを外した男子学生。同じようにカッターを着崩し、怠そうに歩を進めながら、携帯電話をいじっている女子学生。もし一日ずれていたら、きっと何も感じないはずの朝の風景に、大翔は昨夜の少女の姿を、無意識に探していた。

 ――居るわけないか。

 日向美玲と名乗ったあの少女が高校生なのか中学生なのかも、大翔には判らない。何となくモヤモヤした気持ちでいると風が流れ、電車がホームに滑り込んできた。

 四輪と二輪、両方を取り扱う整備工場で働いている為、時々、メンテナンスの為に自分のバイクを職場に置いてくる。空き時間に自分で手入れしてチェックし、帰りはそれに乗る予定だった。

 空気の抜けるような音と共に、停車した電車のドアが開く。大翔は他の乗客と共に車内へ乗り込むとつり革を掴み、車窓に広がる、人気のなくなったホームに目をやった。

 電車が動き出し、車内に広がる複数の香りが鼻孔に届く。香水にトニック、制汗剤。個々が様々に纏う匂いが、細長い密室の箱の中で混ざり合う。微かな不快感の中で皆、表情もなく、口数も少なく、ただひたすら揺られ、それぞれの目的地へ到着するのを待っている。

 俺も、こんな高校生だったな。刹那の感慨。怠そうにつり革を掴み、ふと視界に入った男子学生を一瞥して、大翔は少しノスタルジックな気持ちを覚えた。流れる景色を見つめている男子学生。昔の自分を一瞬、思い出した。一年半前まで、あんな風に制服を気崩し、つまらなそうな顔で電車に揺られていた。カーブに差し掛かり、ほんの少しだけ体が持っていかれそうになる。大翔はつり革を握る手に力を込め、体を支えた。




 夏の夜は短い。まだ陽が完全な日没を見る前にバイクで帰宅した大翔は、部屋のドアの前でうずくまる人影に気付き、フルフェイスのバイザーを上げた。

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