徒花のリーベスリート
 双方の親達が見届ける中、その瞬間は訪れた。
 彼が淡々と手続きを済ませる姿を、私はぼんやりと眼で追う。
 動じる様子は微塵も無い。
 そんなの当たり前だ。
 私から言い出したくせに、この期に及んで何を期待していたのだろう。
 我ながら、なんて醜い執着心。ほとほと呆れてしまう。
 意に添わぬ婚約を解消する為の書類に、サインを書いて判を押す。彼にとっては、ただそれだけの、単純な作業なのだ。
 何も問題は無いだろう。

 私の番が来た。
 これを書けば、彼との関係が終わる。
 漸く、ここまでたどり着いた。
 覚悟ならとうの昔に済ませ――――――済ませた、はず。なのに。
 私の意思に反して手が震えた。
 いやだわ全く、今更何を怖がっているの。
 ダメね……本当に、ダメ。私は意志が弱くて駄目ね。
 我慢しなければ。あと少しの辛抱なのだから。
 彼に悟られぬよう、必死に震えを押し隠す。
 少し歪んでしまったけれど、何とか私の名を綴る事が出来た。
 そっと溜息を吐く。
 婚約解消の儀は、私が考えてた以上にあっさりと終わった。


 これでいい。
 これで、いいの。


 もう、いい加減、彼は解放されるべきなのだ。
 婚約者の『私』という名の檻から。
 むしろ、こんなに長い間束縛してしまって申し訳なかったとすら思う。
 彼はいつも誠実だった。
 私が告白した時も。その後も。
 無自覚にあの娘を想っている様子の時はまだ良かった。
 しかし、何かのきっかけで自覚してしまってからは……とにかく、辛そうで。
 それでも決然とした態度で、己の立場を弁え何事も無かったかのように努めようとする彼の姿を、私の方が見ていられなかった。

 周りに居る人々の中で、彼が彼女に惹かれている事に気付いている者は、今はまだ私以外にいないと思う。
 彼自身、己の本心を自覚したばかりでそれどころではないだろう。
 だから、今なら、まだ、間に合うのだ。
 婚約者がありながら、他の女性に懸想した……だなんて不名誉を、彼に負わせるわけにはいかない。
 私が彼の気持ちに気付いたと、彼に悟られてもいけない。

 彼女の方も、憎からず彼を想っているようだ。
 多少は私の贔屓目も入っているかもしれないが。
 私には彼女の様な特別な能力はないから、彼と彼女が最終的にどうなるかはわからない。
 彼の秘めた恋は前途多難だ。
 彼女はとにかく大勢に好かれているひとだから、並居るライバル達を蹴散らすのも一苦労だろう。
 実際、騎士達だけを数えてみても、かなりの数の男性達が彼女を真剣に好いている。
 けれど、きっと。彼はうまくやると、私は信じたい。
 檻から解き放たれた鳥は、真直ぐに光満ちる青空を目指して羽ばたくだろう。
 彼はいつも柔かな笑顔の下に隠しているけれど、自ら「こうする」と決めた事柄には貪欲に喰らい付き、大なり小なり必ず成果を上げる努力のひとだから。
 そんな所が私は好きなのだ。
 そんな所を、きっと彼女も好きになるだろう。
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