上司のヒミツと私のウソ
「なにか手伝えることがあったら声をかけて。これでも場数は踏んでるから、役に立つわよ」

 秋田さんは先輩らしい口調でそういい、口紅を化粧ポーチにもどした。


 ただ声をかけてもらうことが、手を差し出されることが、こんなにもありがたいものだとはおもわなかった。うれしくて涙が出そうになり、ありがとうございます、というのが精一杯だった。


 だが、声は出なかった。急に化粧室が傾いて、壁に敷き詰められた白いタイルがぐるりと逆さまに回転した。

 上下左右の感覚がなくなり、宙を舞うように意識が遠のいた。




 シトラスの匂いがする。

 この匂いに包まれると、なぜかとても安心できる。胸いっぱいに吸いこもうとして、うまく呼吸できないことに気づき、ゆっくり吸いこんだ。


 体が重くて身動きできない。

 全身に重石を載せられているようだ。

 でも、自分の中のもうひとりの自分が、ここは安全だといっている。
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