とけていく…
 久し振りに座る、この椅子。

 聞いてくれる人がいなくなり、自然と遠ざかっていった、ピアノ。寂し気に光るそのピアノを彼は見つめていた。すると、目の前には自分が演奏するピアノを聞きながら嬉しそうに笑う由里の顔が浮かんでは消えていった。

 あの笑顔を思い描きながら何度か弾いてみたが、虚しくなるだけで心が拒否した。心が拒否すると、指は動かないのだ。

 椅子に座ったままくるりと回り、グラスを後ろのローテーブルに置くと、また元に戻り静かにピアノの蓋に手を掛ける。重い蓋をそっと開けると、そこには朝の光の反射を受けて、白く光る鍵盤があった。適当に人差し指で押してみる。ポーンという無機質な音が返ってきた。

 どれぐらい振りに聞いただろうか。彼は目を閉じて、構えた。その次の瞬間、すでに指は鍵盤の上を滑らかに、しなやかに動いていた。メロディが、部屋の中を満たしていく。

 彼は、何も考えていなかった。それは、『無』に近かった。

 何度も練習したこの曲は、楽譜を記憶しているというより、体が覚えている、という感じだった。

 ところが、急に頭が真っ白になり、彼の指は止まってしまった。脳が動かすように命令しているのに、やはり指は動かなかったのだ。

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