めぐる季節、また君と出逢う
10. 初秋(7)

博物館か美術館のような図書館はどこの棟からも行きやすいようにまるで凱旋状に作られた外国の街の大聖堂のようにキャンパスの中央に建っている。正門側にある図書館の扉はそれこそ聖堂の扉のようにクラッシックな装飾を施した重厚なガラスの扉だった。重たいその扉を押して背の高い細身の青年が出てくる。グラウンドに向かう並木道を確かめるように見て俯き加減に歩いて行った。駿太郎がその青年に気づいたのは自分を追い越して行った女子学生が図書館から出て来たその青年に向かって名前を呼びながら走り寄って行ったからだった。ハダくん、と彼女は青年の名を呼んだ。青年に届かない呼び声が何度か繰り返し聞こえて、懐かしい苗字だと駿太郎は彼女の背中を見送った。図書館の入口で重たいドアを開けながら並木道を見やると、やっと青年に追いついた女学生が青年を見上げながら跳ねるように歩いている姿が見えた。
 政治学のレポートの資料に高科が借りた本をカウンターに返し、持ち出し禁止の本が並べられたサンルームのような資料室の横を通り抜け、大きな窓ガラスが二階まで届いている下に設えたベンチに座った。駿太郎はその席がとても好きだった。インドカレーを出してくれるオープンテラスの食堂で高科と待ち合わせている。時間まであと20分あった。二日も家に帰らなかったので今朝は朝早く高科の家を出て自宅へ帰り、着替えと母親に言い訳やらなにやらを済ませて、そしてまたバタバタと家を出てきた。たった数時間前に分かれたばかりの男にもう会いたい。背もたれに体重を思い切り預けて仰向くと、ガラス窓に大きく青空が広がっている。目を瞑るとその明るさが瞼を透かして目の奥まで届くようだった。秋の優しい光。高科の部屋から見えた青空と同じ、あの空の続き。
── 駿…、駿…
 高科の呼ぶ声が耳の奥で聴こえる。その声は吐息交じりで少し掠れている。小さく「んん」っと唸る声がその隙間に聴こえる呼び声。駿太郎の心臓は体中の血液を集めていちどきに血液を押し流し、駿太郎の体の中央をめがけて奔って行く。
 (爽やかな秋の昼間に思い出すことじゃない…)と顔を少し赤らめて、駿太郎は薄く目を開いた。秋の陽光は先ほどと寸分違わず優しく駿太郎を抱いていた。

 プールサイドを通りオープンテラスの食堂へ向かう。夏が過ぎた後の屋外プールが枯葉をたゆたわせて水を湛えているのが、いつもほど寂しげに映らないのは、ただ駿太郎が浮かれているからなのだろう。今日は秋の気配の何もかもが駿太郎を優しく包む。ウッドデッキからテラスに上る階段を軽く弾むように上ると、テラスの店側の奥に足を折りたたむように踵を片ひざに乗せて本を読んでいる高科が座っていた。ウッドデッキの昇降口で立ち止まってその姿をひとしきり見つめる。あのジーパンの中の足を知っている。太ももの筋肉の付き方を。あのシャツの中の腕を知っている。駿太郎の上でどんな風に彼の体重を支えるか、駿太郎を抱きすくめる時の二の腕の筋肉の動き方を。あのシャツの中の胸を知っている。裸の胸の厚さ、肌の艶やかさを。これからしばらくは何度でも思い出すだろう。
 高科は駿太郎の視線に気づいたのかふいに顔を上げて本を閉じると右手を上げた。この半年間何度だって彼がこうして駿太郎に「待ってたよ」と手を上げるのを目にして来たのに、今日はまるで別の誰かのように一昨日以前の高科とは違って見えた。
 「早かったね」
高科がショルダーバッグをどかしたウッドチェアに腰掛けながら駿太郎はニッコリと笑った。高科は「まいったなー」と小さく呟やき頭を抱えるようにテーブルに伏せて、もう一度顔を上げると口の端を曲げて笑って
「早く会いたかったから。」
 と照れくさそうに言う。
ああぁ、もちろん、俺だって、と駿太郎は心の中で思うけれど、先に言われてしまった言葉を繰り返すことが気恥ずかしくて言えない。自宅に帰る電車も駅から自宅までの道のりも、家に帰ってからだって、駿太郎がみっともない程急いでいたことを高科は少しは想像しているのだろうか。想像してほしいようなしてほしくないような。駿太郎は目を伏せて少し笑った。(早く、会いたかった、だって!!)胸のうちで何度も何度も繰り返す。
 「ちょっと早いけど、なくなっちまう前に買ってこない?」
「うん。」
 インドカレーのナンセットはナンが個数限定の為早いもの勝ちだった。キャンパスマップにはただ「食堂」と書かれているここはプールサイドのデッキと理化学実験棟を繋ぐように建っていて、赤茶けたウッドデッキのテラス席とそこを仕切る窓ガラスが開閉式になっている小洒落た食堂だった。女学生達に人気があり「プールサイド」と呼ばれていた。駿太郎はここを通るたびに、古い「リバーサイドホテル」という歌を思い出す。「プールサイド」は、やはり女学生向けの食堂なのだろう。カレーセットも他のランチプレートも男子学生には少し上品過ぎる。高科と駿太郎は、ナンセットの他にサンドイッチの単品とサイドメニューにチキンバスケットを注文した。水を取ってくる、という高科を待ちながら、駿太郎は「リバーサイドホテル」のメロディーを口ずさんでいた。
 「何の歌?」
 高科がコップと紙ナプキンを置きながら駿太郎の歌を聞きつけて言った。
「『リバーサイドホテル』。知ってる?古い歌だよ。親がたまに歌ってるから覚えちゃった。プールサイドを見るといつもこの歌を思い出しちゃうんだよ。」
「『リバーサイドホテル』か、聴いた事あんな。」
 それから二人は他愛もない話をしながらカレーを食べた。ゆるいカレールーが高科の口元を汚すたびに、駿太郎はドキリとする。高科は時折、食べる手を止めて駿太郎を見詰めた。そうやって二人の甘い時間が流れていくのを惜しむように。
 プールサイドのデッキに陽光が踊っていても秋が深まってきている。カレーが直ぐに冷えてしまった。たった二人しかいないデッキで、肌寒いね、といって笑う。足を絡めたら、暖かいのに、と小さな声でじゃれる高科を眩しそうに見て駿太郎は笑った。


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