めぐる季節、また君と出逢う
11. 初冬
 紺色のピーコートを羽織りながら「じゃ、後でな」と、高科は本を持った手を軽くあて大講堂の方へと歩いていった。駿太郎はその背中を少し見送って図書館へと足を向ける。暖かい食堂から出てくると余計に寒さを感じる。ちょっとの距離だけど、と思いながらダッフルコートのトグルボタンを上から二つほど留めた。駿太郎は午後の講義が二つあって、そのどちらともが専攻分野の講義だった。休講のためぽっかり空いたひとコマ分を図書館で潰すところだった。高科は午後にはひとコマしかなかったけれど二人が恋人同士になってからは駿太郎の最後のひとコマを待って一緒に帰る。アパートの近くのコンビニで週に何度かアルバイトをして、それ以外は殆ど駿太郎に感(かま)けている。駿太郎も何かにつけて高科の部屋で過ごす事が多くなり、二人は、蜜月のような二ヶ月を過ごしていた。駿太郎は大きな欠伸をひとつする。


 「も…ダメ、だめだめだめ」
 細い体を仰け反らせて駿太郎が訴える。ほんのりと熱に染まった体を慈しむように高科は肋骨の浮いたその腹を撫ぜた。上目遣いに駿太郎の様子を伺う顔が見事な程卑猥だ。駿太郎は力尽きてパタンとベッドに背を打った。体中を空気ポンプのようにして、ぜいぜいと息を注ぐ。高科は身体を起こして“次”を始める。伸びた前髪の一束からポタリと一粒汗が滴った。されるがままになっていた駿太郎がまたベッドの上で少し弾む。子猫のように唸る。高科は駿太郎の上で彼を慈しんで奪うゲームを始める。愛しげに様子を伺い、嬲って、挑んで、奪う。そして「どんなもんだ」と得意げに目を細め、駿太郎を味わい尽くす。そうして何度も繰り返す。いずれ何も分からなくなる、その時まで。
 「勘弁して」と、その言葉すら出せなくなる頃になったら、二人はぐったりと身体を横たえ、たとえば無理な体勢にどこかが痺れていようとも動く事ができない。生と死の淵、と言うのがあるのだとすれば、多分二人は際どくその近くまで行っているのではないかと思うほど息も絶え絶えになっている。それでも、大きく上下する背中や背中の下の身体が確かに生きていると知らしめている。生きている。エネルギーのすべてを使い果たすほど愛を貪り尽くして、生きている。そして二人ともどうにか生きた心地に戻るまでそうやってぐったりとしていて、そのまま眠りについてしまうこともあるし、起き上がって消耗したエネルギー分の空腹を満たす事もあった。

 けれど昨晩は少し違った。少なくとも駿太郎は。たった今まで何も分からなくなるほど抱かれた直後には頭の隅にも心の隅にも見えなかったものがそこに少しずつ形を成してくるのを感じる。『それ』は、無くなったのではなくて、深い深い底の方に沈んでいただけだったのか。駿太郎は形を成してくる何かを言葉にしようとして、高科の下に敷かれた腕を力一杯動かし高科を自分の上からどかそうとした。高科は最後の力を振り絞るようにして駿太郎の上から退いてゴロンと身体を仰向けてまだぜいぜいと息をしていた。高科の汗に濡れた肌が空気に触れてすっと熱が奪われる。そしてそれと同時に駿太郎がいま言葉にしかけていた何かも熱を奪われて冷えていくようだった。コリコリと小さな結晶になって、胸の底に沈んでいく。駿太郎は初めて、高科の横で眠った振りをした。

 その日、高科と駿太郎は午後一杯を高科の部屋を片付けて過ごした。少しずつ増えていく駿太郎の持ち物を入れる場所を作ろう、と高科が言って、それほど色々なものがあるようには見えない高科の部屋でも、越してきて半年以上経つと余計な物も増えたし良い機会だと高科は言った。古雑誌、ペットボトルのオマケ、レポートの類、それから自宅を出るときに部屋からそのまま持ち出したもの…。クローゼットと言うよりは押入れと本棚、チェストなどを中心に中身を引き出して高科がゴミ袋に詰め込み、外に出していく。大きなゴミ袋が二つ出て高科が外のゴミ置き場に捨てに行った。駿太郎は押入れの中のダンボール箱を出して、中身を出そうとした時、そのダンボールには手を付けないほうが良いと気付いた。恋する人間の感は鋭い。そのダンボールは他の段ボール箱と違って、箱一杯に何かが詰まっている訳ではなかった。明らかに何かの意図をもって、関係するものだけを集めてその箱に入れて、他のものは入れないようにしてあった段ボール箱だった。アイボリーホワイトのマフラー。小さく折りたたまれたルーズリーフと淡い色の封筒。目に入ったものだけでも十分に伝わる。
 駿太郎は、とりあえず押し入れから出して蓋のガムテープをどんどん剥がしていく、という作業の途中です、という態を装って押入れの中から次々に箱を取り出し、ガムテープを剥がしたり、箱を積み重ねたりしていた。そしてその次に出てきたのが、AVのビデオだった。十数枚入るそのビデオケースの中に、男性同士のものは一枚もない。駿太郎は、思春期を過ごしているうちに自分の恋愛の対象がどうも同性だと気付き始めた。どちらかと言えば物静かに過ごした思春期ではあったけれど、年頃の男の子が普通に興味のあることに駿太郎だって同じくらいに興味を持った。本も雑誌もビデオも女性相手のものも手にしたことはいくらでもある。それは圧倒的にそういうものが多いからでもあるし、それはそれで楽しめたからだ。それでも自分の恋愛対象は同性だったから、やはり同性同士のものの方が余計にそそられた。
 ──高科は本当は同性愛者ではなかったのだろうか?

 二人がこうなった始まりの一言を発したのは高科だったはずだ、と駿太郎は思っている。
── 何も思わなかった?俺んちに来たら、って言った時…こういう、こと…
駿太郎は、高科も自分に想いを寄せてくれていたなんて思ってはいなかったのだ。ただ、毎日高科を見ているのが嬉しくて楽しくて、それだけで良かったのだ。片思いに、慣れている。そう、駿太郎は片思いに慣れていた。それなのに、こうやって始まってしまってから、今更どうしてこんな大事な事を置き去りにしておいたんだろう、と気付く。
(男が男を好きになるっていうのは普通じゃない。好きな人に好きって言ってもらえるなんて、そんな簡単な訳なかった)
 駿太郎の想いに気がついてしまったから、興味とか、振りとか、同情とか?それでも、駿太郎は高科の目が腕が駿太郎を好きだと語ったことを思い出す。あれが恋愛以外の感情な訳がない。それとも深い友情があったら、ああして「好きだ」と言ってもらえるのだろうか?そして、深い友情で男を抱く事が出来るのだろうか?

 「ついでにコンビニ行ってきたよー。小銭しかもって無かったから、こんなんでいいー?」
アルミの扉を開けて、高科が戻った。レジ袋をシャワシャワ言わせながら歩いてくる床の音が、楽しげに弾んでいる。コト、ゴトン、とビニール袋をテーブルの上に置いて中身を一つ一つ取り出した。ホットスナックとペットボトルの飲み物。駿太郎は、押入れの前に緩く胡坐をかいて座ったまま、動かなかった。高科が首を傾げて促す。
 「どしたー?疲れた?」
 駿太郎は曖昧に頷く。
(どうして…)
訊きたい事は山ほどある。あの時、駿太郎が「下心があった」と、打ち明けなかったら、そうしたら、どうするつもりだったのだろう、高科は。高科は、どういうつもりで駿太郎を煽ったりしたんだろう。
 (本当は高科はすごく悪い奴で、そんな風に見えないけど、結婚詐欺師とかだってみんなそうなんだから、俺だけはそんなことないって思いながら引っかかるんだから、だから、もしかしたら…)
そんな、子どもじみたことを考えて否定する。自分は騙されるほど何かを持っているわけではない、と気付いたからだ。それでも、高科が本当は駿太郎に対して恋心を抱いている訳ではないのかもしれない、という疑念は拭えなかった。考えてみれば考えてみるほど、マイノリティ、という言葉や、マイノリティであることを払拭できるほどの魅力が無いという事実がグルグルと渦巻いて幸せであることを否定しようとするのを止める事ができなかった。ただ一言、高科に確めてみたらいい、それだけのことができなかった。


 昨日から駿太郎に追いすがっては纏わり着くものを振りほどくように頭を振って、駿太郎は図書館の重い扉を開けた。次の講義が始まるまであと、一時間以上もある。特に差し迫ったレポートもない。図書館の中は程ほどに暖かだった。窓際のベンチの空いているところを捜して駿太郎はそっとリュックを置いた。コートを脱いでリュックの上に置く。高科は今日も大講堂の前から二番目くらいに座っているのだろうか、そこに、駿太郎が居なくても。自分を目の端に入れておきたくて、と言った高科のことばを思い出し、マジックペンで線を引くように自分の中に湧き上がっている不安を打ち消した。けれど、その不安は、線の下にまだ色濃く残っている。結局、高科はあのダンボールを部屋の隅に重ねて駿太郎に何も言わなかった。駿太郎が中を見たかもしれないとは思わないのだろうか。あるいは見たのだとしても、それを言い訳のように説明する必要もない、と思っているのかもしれない。過去は、過去だ。そう、その通り。
 駿太郎は文庫本の棚へと歩いていき、前から気になっていた社会派ミステリーの作家の名前を探した。数冊手に取ってベンチに戻る。どれから読もうかな。シリーズ物、単発の長編…表紙やら裏表紙やらをひっくり返して結局単発物の長編の本の方を捲り始めた。警察と後暗い組織の一員である人物との関わりや友情、憎しみ、相反する組織にいて利害の一致があれば同じ方へ向いていく矛盾…。駿太郎は特に推理小説を好んでいる訳ではないけれど、特に何も読みたい本がなければこういう本が一番手軽で面白く、時が速く過ぎる。
 そろそろ悪辣な何かが登場するのだろうと思うあたりに差し掛かると、駿太郎は腕時計を確めた。あと30分弱…。足を組みかえてふと見ると、自分と差し向かうようにして立っている人物が居る。
 木目が整った本棚が並ぶのを背にして、広々とした通路でも通る人に迷惑になるほどでもない中ほどに立っている人物は痩身で背が高い。黒いダウンコートを抱えてベージュと生成り色のカウチンセーターを着ている。細身のパンツはこげ茶色だろうか、光の反射の仕方がコーデュロイかもしれない。ゆっくりと駿太郎のほうへ向かって歩いてくる。その顔に見覚えがあった。黒目勝ちな一重の目。小さく少しふっくらとしている唇。駿太郎がよく知っている顔よりは幾分ほっそりとした面差しだが、確かにこの顔を知っている。立ち上がりかけた駿太郎の膝から、文庫本が床に落ちた。それを見て「あ・・・」という顔をする。文庫本を拾い上げて彼を振り見ると、彼はニッコリと笑った。その、笑顔。
「…は、だ…?」
どんよりとした日でも、大きなガラス窓から入る光で図書館は明るかった。駿太郎が背にしている窓から入る光の中に彼は唐突に現れ、そして、静かにけれどはっきりと言う。

「平賀…。やっと、見つけた…」
頁を繰る音。館内を歩く人の足音。囁くように話している声。本の奏でる様々な音。そして、懐かしい声が自分を呼ぶ。──ヒラガ、ヤット、ミツケタ


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