めぐる季節、また君と出逢う
17. 初春あるいは冬の終わり
 身体を動かして働いているうちに、心の中にずくずくと煮凝っていたものがユルユルと溶け出してくる。シーツを大きく広げる瞬間や、床に寝そべるようにしてベッドの下に掃除機のアームを伸ばすとき、長い廊下を小走りにモップ掛けしている間、温かな湯気の立ち上る珈琲や紅茶を淹れる静かな時間にすら、駿太郎の心の煮凝りはユルユルと溶けて、そして胸の奥から立ち上り、頭の先から、手の先から、指の先から、昇華していく。なるようにしかならない。たぶん、自分の胸の中にある答えは自分が気が付かないだけで疾うに出ているのだろう。開き直った気持ちで、素直に自分の中に湧き上がる思いを認めるだけでいい、と思う。
 朝は4時半に起床。スタッフと言っても4人分、オーナー夫婦と高科と自分の分の簡単な朝食を用意して食べて、それから宿泊客の朝ごはんを用意する。7時から9時くらいまでに朝食のサーブ、10時にチェックアウトラッシュがあり、その後、掃除・洗濯・買い物。昼過ぎに1時間ばかり休みがある。それからこんどはチェックインラッシュ、夕食の準備、夕食、食後のサービスが少しあって、お風呂、やっと一日の終わり。
 携帯電話は持たない。朝目覚ましに使い、昼間何処かに出かけるなら持つこともあるけれど、大体はペンションの何処かで休んでいるので必要ない。夜に部屋に戻ると必ずと言っていいほど羽田からのメールが入っている。入っていなければ、寝るまでの時間に入ってくる。
 大概は今日一日何があった、という報告で明日も頑張ろうねとかおやすみなさいとかの言葉で締めくくられているそれは、ここ数日になって急に熱を持ち始めた。それは、そろそろ答えを出さないとと思っている、ということを羽田に伝えてからだった。3週間──このアルバイトを終えて東京に帰ると、あの日「もう少し待ってくれ」と伝えてから3週間経つ。
 駿太郎が付き合っている相手が男だと言ったとき、それまで俯いていた羽田は顔を上げて駿太郎を見つめた。少し驚いているようにも見えたし、ほっとした顔にも見えた。ただひとつ分かったことは、おそらく羽田は駿太郎に恋愛という意味においての期待など抱いていなかったのだということだ。それでも、彼は駿太郎を好きだと言って、友達でいることすら出来ないと言った。彼のまっすぐさを尊敬するし、とても愛おしく思う。そしてそんな彼の愛情をこうして受け止めていいのは自分でいいのだろうかとも思う。
 ──何度も何度も何度も何度も思い出した
──好きだって言うくらい、いい?
──今年もよろしくお願いします。心をこめて。
──どんな一日だった?空を見た?美味しいご飯食べた?疲れすぎてない?風邪引いてない?明日も頑張れそう?おやすみなさい!
それは、文字で届いたのにも関わらず駿太郎の頭の中ではよく知っている羽田の声で再生される。いつでも自分を思っている、と伝える言葉。溢れ出す想いを伝える言葉。
──平賀、血迷ってよ。平賀、好きだよ。

 ベッドが軋む。駿太郎は携帯電話を枕の横において仰向けになった。もう目を瞑っても思い描けるくらいに覚えたその天井の木目を見つめる。羽田の声が再生されて、駅のホームでくず折れた羽田の肩や、自分を見上げた羽田の顔や、夢で見た彼の真剣な眼差しと自分の手首を掴んだ羽田の手が一枚一枚の画になってひらひらと降ってくるようだった。そのスライドに眩暈がするほどに。

 そのとき、小さくドアがノックされて、駿太郎は現実へと引き戻された。『駿?』ドアの向こうで、おそらく頭をドアにこすり付けるようにして、高科が遠慮がちに呼んでいる。「はい」駿太郎は答えて、物憂げに立ち上がった。
 高科がドアに凭れて微笑む。その顔は少し疲弊していて、それでも若いエネルギーに満ちた矛盾した色っぽさに満ちている。ドアから身体を引いて、部屋に招き入れると、高科は駿太郎の形に乱れたベッドの上に座った。その横に駿太郎も腰掛けると、高科はそうっと駿太郎の膝に手を置いた。確かめるように、伺うように、その手は駿太郎を抱き寄せる。頬を寄せて、唇を寄せる。高科の手が駿太郎のタートルセーターの脇をたくし上げたとき、駿太郎はその手を掴んで止めた。
「だめ・・・」
それは、駿太郎のせめてもの誠意だった。高科に対して、そして、羽田に対しての。声が聞こえちゃうから、という言い訳を高科は信じている。
「もう2週間以上してない。」
と、高科はふくれっつらを見せた。
「ねぇ、」
高科はもう一度駿太郎を抱き寄せて口付ける。手をシャツの下に入れる。
「だめだってば。」
「声を出さなきゃいいじゃん。」
「出ちゃうもん。」
「じゃ、口塞いどいてやるし。」
「やだ。」
「なぁ。」
「やぁだ!」
「お前だって…」
「…でも、だめ。」
 そう、本当は駿太郎だって高科を(それとも自分を求めてくれる誰かを?)欲しいとその身体は言っている。それでも、駄目だと思う。自分が本当に欲しているのは、誰なのだろう。誰の手で、誰の唇で、誰の言葉なのだろう。案外抱かれてみたら分かることもあるのかもしれないとも思うけれど。
そのとき、枕の横に置いた駿太郎の携帯電話がぶーんぶーんとメールの着信を告げた。駿太郎は携帯電話をチラリと一瞥しただけで高科の手をそっと膝に置いて手を重ねていた。
「メール…?」
「うん」
「いいの?」
「…いい。」
 高科を振り仰ぐ。高科はただ駿太郎が重ねた手にもう一方の手を重ねながらその手を撫でた。そして駿太郎の視線に気づくと「ん?」というようにニコリと笑った。
「誰?って訊かないの?」
「ん?メール?じゃぁ、──誰?」
「高校時代の友人。」
「…?そう。」
「最近、毎晩くれる。」
「ほぉ…」
 高科の目が少し光る。駿太郎の手を撫でていた手が止まった。

「駿、初恋の話、して…?」
「高科こそ。」
「前に話したでしょ?俺は、小六のとき。同じクラスの子だった。」
「それじゃなくて。」
「どれ?」
「白い…」
「何?」
「白い、マフラーをくれた人。」
「あぁ…。それは、」
 高科は駿太郎の手を放して両手を後ろにつくと、天井を見上げるようにして話し始めた。
「初めて付き合った子。高2のとき。告白されて付き合った。高校3年の秋位までだったかな。受験が本腰になってお互いなんとなく消滅したけど。あのダンボールのことだろ?実家に置いておくもんでもないし、なんとなくあのままになってただけ。特に意味はないよ。過去のことだろ?」
「でも、言ってくれなかったよね。それに、高科はほんとは女の子が好きなんじゃないの?」
「言うほどのことじゃないだろ?今はなんとも思ってないんだから。女とか男とか関係ない。その時好きだった人は女の子だっただけ。お前が男の子だっただけ。そんなの、どうだっていいだろ?──分かったよ。正直に言ったら俺も最初は戸惑った。お前のこと可愛いなと思ったり、お前とやらしいことしたいとか思うの、何かなって。でも、そう思うもんは思うんだから。お前が女だったら面倒くさいこと色々ないだろうけど、それは、認めるけど、それは俺がお前の事好きだって思う気持ちとは関係ないだろ?」
 高科は少し苛立ったように一気にそう言って
「お前こそどうなの?毎日メールが来るって?元クラスメートから?随分マメなトモダチだな?それがその、お前の初恋の相手なわけ?」
 と眉を上げた。
「違うよ。俺の初恋は自分でもよく分からないけど、たぶん入院したときの看護師さんだったと思う。男の人だった。そうか、俺、男を好きになる人だったんだ、て、ちょっとショックだったよ。羽田は、羽田っていうのはそのメールをくれている級友だけど、留年した後の同級生で」
駿太郎はそこで一旦息を継いだ。
「で?」
高科は静かに先を促した。その目は今はもう苛立ってもいないし、憤ってもいない。悲しそうでも、辛そうでもない。冷静に、駿太郎を受け止めようとしている瞳だった。
「卒業するときに、告白された。──告白、と言っていいのか分らないけど、そうだったと思う。『好きだったと思う』って言われた。それから、たまに偶然会うことはあったけど、べつに挨拶するくらいだった。何か、飲まない?」
「いらない。」
駿太郎はサイドテーブルの紅茶のマグを手に取った。部屋に引き上げる寸前に持ち込んだそれはまだ温かった。
「大学で、会ったんだ。羽田に。お茶を飲んで、ちょっと昔話とか近況報告とかして…。」
「──毎日、メールが来るっていうのは・・・そいつは、まだ、駿のこと、好きってこと?」
答えない、沈黙が答えになる。
「ふうん。そっか…そんで、多分、駿もそいつのことが──気になってるんだ…。もしかしたら、好きかも、ってこと?じゃなきゃこんな話にはならねーよな?」
「…分らないんだ。」
「分らない?分らないって何?分りきってるじゃんか。」
「分らない!高科のこと、好きだよ。高科、俺、本当に高科のこと、好きなんだ。だけど・・・」
「ずっと…──ずっと、駿を好きだった奴を、今好きな人が居ますから、って、簡単に切れないってこと?」
「そうなのかな。」
「俺が今、高校生の頃付き合ってた子に偶然会って、その子がすんげー俺の好みで、まだ俺の事好きだって言っても、俺は、駿のことだけ好きだよ。迷ったりしない。でも、お前が迷ってるってことは、多分お前は俺よりもそいつの事が好きってことなんじゃねーの? そいつの事、終わりにしてからじゃねーと、いつまでも…多分、ずっとそいつの事が気になるんじゃねーの?違う?終わりにして来てよ。そいつと、付き合ってみて、そいつと、寝てみて、そんで、俺の事まだ好きだ、戻りたいって思ったら、今度こそそいつの事終わりにして戻ってきて。でも、俺、待たないから。もしかしたらその時には俺はもう、別の奴を好きになってるかもしれないから。もしかしたら、まだ、お前の事好きかもしれないけど、でも、保証できない。もし、その時俺がまだお前のこと好きだったら、そういう運命だったってことだし、もし、その時俺が別の奴と付き合ってたら、それがそういう運命だったってこと。」
それから高科は駿太郎から目を離して、自分の足元を見詰めた。もう一度目を上げて、駿太郎を見ると、高科は壊れそうな微笑を浮かべていた。それはきっと、高科の精一杯の優しさだった。

 「なぁ、もう一度、キスしてもいい?」
 駿太郎は俯く。意を決したように高科を見詰めて、それから目を瞑る。高科の唇が一瞬触れて、離れる。高科は駿太郎がそこにいることを確めて、そしてまた、唇を重ねた。長く。深く。記憶に、刻み込んでいるように。
「駿・・・」
 高科は駿太郎を抱きしめて、最後に、囁くような小さな声で、躊躇うように駿太郎を呼んだ。


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