めぐる季節、また君と出逢う
3. 回想 ~盛夏~
「なぁ、バイト、しない?」
 一学期末の試験とレポートに追い立てられている学生たちがざわめく食堂はほぼ満席だった。ようやく見つけた食堂の隅の席で駿太郎の背後の窓から差す夏の光に目を細めて高科が言った。
「バイト?」
「夏休みの予定、何かもう決まった?」
「んん?いや、なーんも」
「おぉ、じゃあ2ヶ月ずっと出来る?──っしょに」
 高科の背後の席の学生たちが喧しい声を上げ、何事かと肩越しに後ろを振り向いた高科の声が一瞬くぐもって、最後の大事な一言がざわついた食堂の何処かに散った。その一言を大事だと思ったのは、この数ヶ月の間に駿太郎が高科と過ごす時間を何にも優先したいと思っているからだった。朝目が覚めて、日が照っていても、雨が降っていても、どんよりと曇っていても、大学へ行けば高科がいて高科と講義を受けて高科が笑ったり眉を顰めたり目を細めたりして、高科の声を聴いて、彼と話すことができると思うと毎日なんとなく楽しかった。
 長野県のペンションの短期の住み込みのアルバイトだという。三食昼寝が付いているが基本的に休みはない。
「大変だとは思うんだけど。急なんだけどね、俺も昨日電話もらって───」

 高科の叔父が経営しているペンションだという。ベッドメイキング、部屋の掃除、キッチンの手伝い、夕食時のサーブや、送迎などの接客、その他雑用。確かに大変そうな仕事だ。『ペンションでバイト』という言葉から想像するような洒落たものでもなさそうに聞こえる。ただ高科がカツカレーを口に運びながら、その仕事内容を説明する表情は真剣でそして楽しそうで、夏の間中、こうやって高科のことを見ていられるのかと思うと駿太郎は一も二もなく引き受けたのだった。


 東京駅のホームに高科は白いポロシャツとチノのハーフパンツ姿で現れた。紺地に赤いアクセントのダッフルバッグを肩に担いでいたが、二ヶ月も長野に居るのにこれだけの荷物で足りるのだろうか、と駿太郎のほうが心配になったほどだった。駿太郎は小さめのキャリーバッグに下着と着替えを10日分程と必要かどうかはわからなかったがよく読む文庫本を5冊、それから東京土産にと煎餅を買ってあった。
「おっまえ、なに、その荷物…多くねえ?移住する気なの?」
 からかい半分に高科が言った。
「多…くないだろ?だって…2ヶ月でしょ?高科こそ、なんだよ、そんなちっちゃいバッグで2ヶ月間大丈夫なの?何か足りないって言ったって貸してあげないよ。」
「お前ねえ、どんな僻地へ行くつもりなんだよ。人が住んでるんだから大抵何でもあるだろうが。お前っていつもそうだよなぁ。リュックだっていっつも重そう。そんで、あれだよな、必要な時に出てこなくていっつもひっくり返してるじゃんか。」
 高科はいつもそうだ。何にも構わない、何にも興味ない、という態度で居るくせに案外観察眼が鋭いことを言う。そしてこんなとき駿太郎は「俺の事見ててくれたってことじゃんか」と思うとなんでもいいから壁とか床とか手ごたえのあるものをどどどどどどんっと力任せに叩きたくなるような衝動に駆られる。
 からかわれて図星を指された事が悔しい反面、そんな風に自分をちゃんと見ててくれた事が嬉しくもあり、どうしていいか分からない駿太郎は溢れる色んな気持ちを胸にしまっておこうとしてきゅっと口を結ぶ。そして、駿太郎がいつも自分の気持ちを抑えようとする時にそうやって口を結ぶと、どういう訳か駿太郎の下唇は前に突き出るらしい。それも高科が見つけた顔だった。
「ほら、また」
 高科は笑って駿太郎の下唇をつまんだ。
「受け口になってるよ。」
 高科の手を払いながら「痛い」と訴えたのは、多分、唇じゃなくて心臓だ。だけど、駿太郎は「痛いなあ、もぅ」と呟きながら下唇を撫ぜてその熱さを確めた。

 向かい合う列車の席に高科は足を余らせて少し横にしているので、座るとハーフパンツからしっかり見える高科の膝頭が駿太郎の膝に事あるごとに当たった。駿太郎は意識してしまうたびに窓の外を見て気持ちを逸らさないと、と必死になるのに、そう思えば思うほど意識してしまうので困ってしまった。けれど、二人が大学の事や試験の事やら、これから向かうペンションのオーナーである高科の叔父夫婦の事などを他愛もなく話していたのは乗車してから三十分ほどのことで、程なく高科はうとうとと眠ってしまった。それからは駿太郎は文庫本を出して本を読み始めたものの、膝がもっと当たったらいいのに、とか、電車がもっと大きく揺れて高科が自分に寄りかかってくれないだろうか、とか思うと本に集中できなかった。


 2ヶ月の間に一度、ビールを飲みすぎてしまった夜があった。最初に言われていた通り、殆ど休みのない2ヶ月だったけれどその日は駿太郎の二十歳の誕生日で高科の叔父でペンションのオーナーの春さん─高科秀春─が夕ご飯が終わった後にリビングに居る人たちに声をかけて小さな誕生日会をやってくれた。ごくたまには飲んだことがあったけれどアルコールを堂々と飲めるようになった、と上機嫌に任せて飲んでよい気分になった駿太郎はペンションの大きなプロジェクターの前のソファーの下に、ソファーを背もたれにするように座っていた。滞在客たちはそれぞれの部屋に戻り、リビングもプロジェクターのあるところだけの照明を少し落としてペンションは薄暗い闇に包まれていた。駿太郎はソファーに寄りかかりながら流れるビデオを観るともなしに観ていたけれど、それがなんのビデオだったのか、未だに思い出せない。振り向くと、高科の長い膝下があった。見あげると高科はグラスを手にしてプロジェクターを見ていた。駿太郎がその顔を眺めていると、高科はすっと目を下ろして駿太郎を見た。その顔はとても穏やかに微笑んでいた。
 「駿は明日午前中休んでもいいってよ。もっと飲む?」
それまで、高科は駿太郎の事をお前とか「ヒラガ」と呼んでいたが、このアルバイトが始まってから高科の叔父であるペンションのオーナー夫妻が「駿君」と呼ぶのを受けて「シュン」と駿太郎を呼ぶようになった。駿太郎は高科の声が「シュン」と呼ぶたびに胸がきゅんとする。
 高科はグラスをテーブルの上において、テーブルの上のスナックを口に入れると小さく「湿気ちゃった」と言った。それからまた駿太郎を見て目顔で「どうする?」と訊いたけれど、駿太郎は頭の半分で飲もうかな、どうしようかな、と考えていながらぜんぜん別のことを口にした。
 「俺ね、お前の、このパンツ履いてるとこ、好き。」
高科は湿気たスナックをもう一口放り込んだ手を止めて駿太郎の顔を見つめた。それからにやりと笑ってスナックの粉のついた指をチュッと吸うように舐めると
 「そう?」
 と、そんなことなんでもない、というように返事をした。
 それは、トルコブルーのタイパンツだった。だぶっとした薄い涼しそうなコットンのパンツを独特のフォルムで着る。骨っぽい踝が見えて、高科の背の高さや足の長さ、ほっそりとしているのに逞しく見える筋肉のつき方をより魅力的に見せている気がした。彼は大概ジーパンかチノパンを履いて、とても暑い日や風呂上りにそのタイパンツを履く事が多かったが、彼がそのパンツを履いてペンションの敷地に水を撒いたり、落ち着いた赤いペンションのバンを洗車したりしている姿は、少し立ち止まって見て居たくなる位、美しかった。魅惑的、と言ってもいい。そして、ともすればただだらしないリラックスパンツに見えそうなタイパンツがこんなにも美しい民族衣装だったのだと思わせる。
「お前が履いたら長袴かもな」
 そういって楽しそうに笑った高科の洗い髪が一束、額を落ちる。テーブルのグラスを取ってもう一度あおぐと、高科はまたプロジェクターの方を見つめた。
 駿太郎はその時、現実と夢のはざ間にいた。高科の組んだ足、奇麗な踝…。駿太郎は高科のタイパンツの裾をぎゅっと掴んで、そのままソファに凭れて眠りに落ちて行った。



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