めぐる季節、また君と出逢う
6. 回想 ~春~
 羽田が自分にそういう気持ちを抱いていた事を、駿太郎は少しも気付かなかった。ただ、羽田は人懐こい優しい子だ、と思っていただけだ。そうして、彼が駿太郎に向けてくれる友情を(と、駿太郎が思っていたものを)ただありがたく思っていた。
 高校卒業の日が近づいてきたある日に、駿太郎は図書館で本を読んでいた。卒業間近の学校には姿を見せない学生もいたが駿太郎は大学入試に悉く失敗していたし、残りまた一年あるのだと構えていた。焦っても仕方ないことだ。彼の半年にわたる入院生活や留年はそうやって彼に人生における「休み」とか「諦める」という事を嫌というほど叩き込んだ。確かにどうしよう、どうなるのだろう、と焦るようなもがくような気持ちはある。それでもやはりどうしようもできないこと、というものもあるのだ。
 図書館で読んでいたのは、シリーズ物のサスペンスだった。頭のいい女学生と大学の教授が力を合わせて事件を解決していく。そこには色々なロジックが敷かれていて、脳の色々な部分を刺激する。自分の座っている席の前に誰かが座ったことは分かっていた。こんな時期、図書館はあまり人が居ないのにわざわざ人のいる所にきて座ることもないだろうにと一瞬だけ思ったけれど直ぐに忘れて本に没頭していた。気がつけば日が低くなり春の香りは来る夕闇の中に溶けて行く時間だった。(下校時刻だ…)本を閉じて溜息をつくと目の前に羽田がいた。羽田に気付いた駿太郎を見て羽田はにっこりと笑った。そして、のんびりと椅子を引いて駿太郎が立ち上がるのを待っていた。羽田の影は図書館の床に長く延びて、カウンターの所でカクンと折れ曲がっていた。

 「びっくりしたよ。」
「ずっと、いたよ。」
「うん、誰かが来たな、とは思ったんだ。どうして声掛けてくれなかったの?」
「…。──…たかったから。」
「え?何?」
 西日の差す廊下。昇降口に下りる階段の踊り場。運動部の学生達のざわめく声。肌色の校庭。
「平賀のこと、見てたかった、から!!」
 下駄箱の前で急に振り向いて羽田が言った。何かが違う、と駿太郎は思ったけれど、それが何なのかその時は分からなかった。
「へえ…」
 残酷なほど間延びした答えを紡ぎだした自分の唇を羽田は見つめていた。(なんだろう。)でも、本当にとても、思いも寄らなかったのだ。あんなに明るく元気で爽やかに自分に接してくる彼が自分に恋心を抱いていたなんて。恋心はもっと、湿っていて時に含みすぎたものがどこからか滴っていくような、そんなもののように駿太郎は思っていた。恋心を抱く相手に、あんな風に爽やかに接する事など、駿太郎にはできない。
「“詩土仁葦(シドニー)”に行こう。」
羽田は唐突に言った。その顔は駿太郎がよく知っているいつもの羽田だった。
「うん。」
詩土仁葦、というのは学校から程近くにあるカフェで、いつも附属大学の学生達で程よく賑わっていた。高校生は行きにくかったが駿太郎は何度か羽田と行った事があった。

 大きなプラスチックカップのコーラ・フロートと大きな分厚いマグカップの温かいカフェラテが安っぽい青いトレーに乗って出てくる。大きな皿にこんもりと載せられたポテトフライは「ポテトフライ」ではなく「チップス」という名前で呼ばれていた。
 大学はもう春休みなのだろう。いつもよりも空いている店内から薄暗くなる外を見る。まばらな人影がきっとここに「詩土仁葦」という喫茶店があることにすら気付かないか忘れているかして通り過ぎて行った。チップスを頬張りながら道行く人を眺めている駿太郎を、羽田は何か言いたげに見ていた。駿太郎はやっと少しずつ「これは何かとんでもない勘違いをしていたのかもしれない」と気付き始めた。
 細くカリカリになったポテトだけを選んで食べるのが好きだ。羽田はホクホクした方が好きなのでちょうど良い。それは前回「詩土仁葦」に来た時知ったことだった。カリカリに揚がったポテトを咥えて羽田を見ると、羽田はやはり駿太郎を見ていた。店内に古いアメリカのポップスが流れている。
 「卒業したら、」
 目だけがいつもと少し違うのに、羽田はいつもと同じ声色で話す。
「会えなくなるんだな。」
 駿太郎は、チップスの大きな皿の下に敷かれたナプキンの端っこで指先を拭いた。爪の先が艶々と光っているのがなまめかしいなと、自分でも思えた。そして顔を上げて、羽田を見た。「そうだな」と言えばいいのだろうか、それとも、「また会えるじゃないか」と言えばいいのだろうか。羽田は、どちらの言葉を期待しているのだろう。
 「また、会えるよ。きっと。俺はほら浪人生になるから頑張らないとだけど、たまには息抜きに誘ってよ。」
冷め切ったカフェラテのマグカップが重たい。一口飲んでテーブルに置くとゴトリ、という音を立てた。羽田はもう駿太郎に何かを伝えることを止めたらしかった。ポテトを二、三本ずつ手にしながら口に運んで、薄暗い通りを眺め始めた。そして「さっき、何読んでいたの?」と駿太郎に尋ねて、いつもの通り、駿太郎が最近読んだ本の話や、最近テレビで観た話をして、駿太郎に同意を求めたり、求めなかったり、笑ったり、眉を顰めたりした。

 ──平賀のこと、見てたかった、から!
でも、きっと、忘れてしまう。4月になって新しい生活が始まって、あの頃の自分のように新しい生活に戦き、置き去りにされた誰かが、羽田の明るさや、羽田の優しさを求めるようにそこにいたならば。羽田は、自分に手をのばしたように彼に彼女に手をのばすのだろう。「大丈夫、俺がいる」と、言葉にしないでも伝えるやり方で。

 別れ際の雑踏で、羽田は言った。
「俺ね、平賀、俺、平賀のこと好きだったと思う。」
好きだ、と言うのではない。好きだった、と言うのでもない。彼はとても正直な男だ。そして、彼の言う「好き」は友達として、というのとも違うとはっきりとその言葉に乗せて想いを伝えてくれた。そして、駿太郎の答えを訊かずに
「じゃ、次は卒業式かな。またな。」
と手を上げて踵を返した。
 彼の背中が雑踏に消えて行くまで見送った。せめて、そうする事で彼の正直な気持ちに正直に答えたつもりで。そして、次に羽田に会った時、羽田はやはり、いつもの羽田だった。その時、駿太郎は思った。自分にはできない。だれかに想いを伝えた後に、これまでと同じようにその人物に会うことなど。

 でも、今なら…と駿太郎は考える。あの時の彼の気持ちを。彼は、きっと、いつもと変わらない自分でいることでその恋を続ける覚悟を決めたのだということが今なら分かった。失いたくない、と思ったら、どうやってでも側にいる方法を考えてそれを選ぶだろう。胸が潰れそうに痛くても。自分の犯した間違いをなかったことにするまで。



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