めぐる季節、また君と出逢う
7. 初秋(4)
 高科の寝息が聞こえた。きっと昨晩はあまり眠れなかったのだろう。駿太郎はそっと高科の髪に触った。見た目よりも強(こわ)い。それからそっと頬に触った。指先に少し髭が当たった。駿太郎は暫らく高科の寝顔を見て、少し満足すると、高科を起こさないようにそぅっと起き上がった。政治学のレポート用の書籍が先ほど高科が積み上げ直した通りにそこにある。
 テーブルの上に、高科が作った朝ごはんがそのまま乗っていた。玉子焼きがぽてりと乗った皿がテーブルの中央に置いてあった。駿太郎は、高科が起きるまで待とう、と思うのに、にわかに腹の虫が鳴った。一つだけなら?でも、そうしない。高科の手料理を食べる瞬間を共有したいと思った。健気な自分が微笑ましい。
 駿太郎はサランラップを捜しに台所へ向かった。綺麗に片付いた台所でサランラップは流しの上の棚に置いてあり直ぐに見つかった。サランラップを手に戻る時、台所と居室の間の床が思いのほか大きな音で鳴った。ギシッというその音に自分で驚いて高科を見やったが高科は身じろぎもせず寝入っているようだった。

 一つ一つの皿に丁寧にサランラップを掛けて、駿太郎は本を読み始めた。文庫本の大きさのものあり、新書版の大きさのものもあった。目次をチェックし、必要そうな項目を読んで、自分のリュックから出した筆箱の中の付箋を次々に貼っていく。次から次に読んで、付箋を貼って、積んで、そう広くもない高科の部屋に寝転がりながらすべての文献に目を通し終わった頃、時計はもうとうに正午を過ぎていた。
 勢いにのってレポートを書いてしまいたい気もしたけれど、そうするには腹が空きすぎている。高科のことを起こしてご飯食べようかな、と思って振り向くと、高科はうつぶせになって手に顔を乗せてこちらを見ていた。
「高科?なんだー、起きてたの?」
 高科はくすくすと笑った。
「なんだよー。いつから?」
「んー、20分くらい前かなあ…」
「気付かなかった…」
 高科は起き上がりぐっと背筋を延ばした。長い腕が伸びる。首を左右に振るように回し、大きく息をして立ち上がった。
「ごめんね、寝ちゃって。よし!朝メシ、食うか?」
 寝起きの高科がそうして首を傾げる様子は、何故だかとても子どもっぽかった。つい笑みがこぼれる。駿太郎のその笑顔を見ると、高科は眩しそうに笑って「なあにー?」と咎めるような口調で言ってテーブルの前に座った。「サランラップ、ありがとなー」と言いながらそのラップをはずしていく。
「いただきまーす」
 声を揃えて食べ始めた瞬間、駿太郎は、この食事がとてつもなく大きな意味を持っていることに気付いた。駿太郎はこの半年間に数え切れないくらい食事を高科と食事を共にしたけれど、この食事は確かに二人で迎えた朝の(あるいは昼の)食事だった。一般的に『二人で朝を迎える』という言葉が意味しているのはただ時間を表す言葉ではなく「朝」の前に「夜」があって「夜」を二人で過ごしたというそのことの意味の深さをあらわしている。その意味での「朝を迎える」という言葉の意味する事と、実際には少し違っている。駿太郎はまだ高科と肌を重ねていないけれど、重ねることを前提にした何かが始まっている事を、この食事は意味しているのだと思った。そして、駿太郎だって思いを重ねないまま肌を重ねる人がいることを知っている位は汚れた大人だ。だからこそこうして想いを重ねてそれから肌を温めあうということの意味を思った。
 「本は全部読み終わった?」
 幸せそうというならこれ以上はないような笑みを湛えて高科が玉子焼きを駿太郎の銘々皿に乗せる。
「ありがと。うん、関係あるところっぽいとこだけ、拾い読みだけど。」
「飯食い終わったら、レポートやって…──」
少し緊張気味に高科は続ける。
「──今夜も、泊まってく?…だろ?」
 駿太郎の血管は急に仕事を早めて、体中を駆け巡る。指先、足の爪先まで血を送り届けている。
「うん、あの、ん、と、そうしたい、けど、でも、あの、着替えとか…あれだし…」
 玉子焼きの甘みが口の中に溶けている。舌先の玉子焼きの欠片をスイと口の奥へ運んで駿太郎は色々な想いごと飲み込んだ。



 高科が腕を伸ばして室内からバルコニーの棹に角ハンガーを掛けた。高科の派手目なボクサーブリーフと淡い色合いのスニーカーソックスが数組かかっていてそこに、駿太郎の紺色のボクサーブリーフと杢グレーの靴下が混ざっている。そして、角ハンガーの脇に等間隔に並んでいるシャツ類はクリーニング屋で貰う針金のハンガーに掛かっていて、そのうちの一枚、紺色地に白い細いストライプの長袖のTシャツは、他のシャツ類よりもワンサイズ小さい。
 振り向いた高科は駿太郎の視線に気がついて
「おい!ほら、やっちまえって!」
 と急かした。
「はぁい」
 気のない返事を返してレポート用紙に向かう。

── 「おし!!脱げ!!」
 食事の最中に、高科は箸をテーブルに音を立てて置いて立ち上がった。一瞬、そういう意味かと勘違いした駿太郎は真っ赤になって「い、いま?」と焦りを露わにし、高科はそれに気付くとからかうように笑った。
「ちっげーよ!そりゃー、俺だって…なんだ…まぁ…んじゃなくて!!着替えがあれば泊まってくんだろ?晴れてるから!!洗濯しよ!!ほら、急いで脱げよ!!今日だけ俺の着てればいいじゃん?な?」

 駿太郎は先ほどのやり取りを思い出し、また赤くなる。ジップアップのカーデガンの下に着たシャツは、カーデガンよりもサイズが大きい所為で変に皺を寄せて駿太郎の胸元を撓ませていた。自分の家で使っているものとは違う柔軟剤が香る。思い出すと耳の奥まで逆流するような思いをどこかに蹴散らす為にレポートに集中しようとすればするほど、「脱げよ」という高科の言葉と「いま?」と答えた自分がグルグルと頭を巡った。そしてふとバルコニーを見やれば、目を引く派手なボクサーブリーフだ。

「何赤くなってんの?駿、またやらしいこと、考えてんだろ?」
「な…ま、またって何だよ?」
「だって、さっきだって、着替えの話してるのに、変なこと考えてたんじゃねーか。確かにな、これ、ある意味卑猥だよなぁ。ひとつだけ明らかに住人以外の下着が乾してあるって。男物だからまだ分かりにくいけど、エロい光景だよな。」
「エ、エ、エロ…ぃって…」
「だから、ほら、やっちまえって。早くエロイ事したいだろ?」
「何言って…!し、したくないよ別に。」
「ふーん」
 高科の眇めた目が光る。その目に射抜かれて、駿太郎はまた耳まで赤くして、レポート用紙の揺れる線を眺めた。昨日の今頃はまだ大学に居た。食堂で定食を食べていた頃だろうか。たった一日跨いだだけなのに、この半年間では知り得なかった高科を随分と見た。それを指折り数える。
 (まずは、あの、派手目のボクサーパンツ。それから、料理が上手な所。高科はきっと家事が得意だ。そっけないけれど整頓された部屋…。──それから、あの泣きそうな困った顔、壊れそうな脆そうな、いろんな高科…)
「ほらー!!もう!!早くやっちまえよー」
止まったままのシャープペンに焦れた高科が腕を伸ばして駿太郎の頭をクシャリと摩る。
(そう、とにかく、これだけは片付けてしまって──もっとたくさんの高科を知りたい)
 駿太郎の瞳にやっと真剣さが宿り始める。


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