めぐる季節、また君と出逢う
8. 初秋(5)
 シャワーカーテンに水飛沫が当たる音がしている。その音がこれほど悩ましい音だと思ったことはなかった。10月も半ばになって肌寒いはずの季節に、胸も腕も背中も熱い汗が滲むようで、駿太郎は、先ほど着替えを洗濯に出した時にシャワーを借りたのに、もう一度汗を流したいような気がする。書き終えたレポートはまだテーブルの上に乗っている。駿太郎は表紙を書いてその一枚を重ね、レポート用紙を大事そうに部屋の隅においてある自分のリュックの方へ持って行った。クリアファイルに入れて背中側に入れる。窓の外を見ると宵の明星と思しき星が一粒藍色の空を飾っていた。

 政治学のレポートをどうにか仕上げて諸手を上げてラグの上に寝転び、ふと見やった時窓の外は夕焼けだった。薄紅色に染まる雲、赤みがかった藤色の雲、刷毛ですっと撫でたように夕焼け空を彩っている。ずっと小さい頃に、ああいう空から何かが降りてくるのを見た事がある。それは、ただ、見たように思い込んでいるだけの記憶かもしれないのだけれど、駿太郎にとってはそれは確かな事実で、多分それを自分に見せた存在というものがあるはずなのだと思う。そして、その記憶は駿太郎とその存在との間だけで交わされた内緒話のようなもののように思えた。おそらく一瞬ずつ変わっていく空の景色を眺めながらその記憶を取り出してもう一度仕舞う。投げ出した手に温もりを感じてやっと空から目を逸らすと、高科の優しい目線と合った。
「何を見てたの?」
「空。」
「長野でも──」
 高科は、駿太郎の手を握り締めたまま、自分も駿太郎の方に頭を向けて身体を横たえた。
「──よく空を見てたな。」
駿太郎の手を握っている手を変えて肘枕をする。
「そうだっけ?」
「うん。ペンションの中庭で水撒きしながら、ぽーっと空を見てた。それから中休みにコテージの裏のベンチに寝転んでずーっと空を見てる事もあった。」
「あぁ、そうかもしれない。東京と違うよなぁって、いつも思ってた。コテージの裏のベンチはね、あそこに寝転んで頭を下げて空を見ると、空が不思議な感じで見えるんだ。それが面白かった。」
 駿太郎はほんの数ヶ月前、青い夏の景色の中に居た自分を懐かしく思い出していた。高科も懐かしそうに微笑む。いまここに居る駿太郎ではなく、数ヶ月前の夏の駿太郎を彼は見ているのだろうと駿太郎は思う。
「空を見ている俺を、見てたの?」
「そうだよ。」
「知らなかったな。」
「そうだろう?」
 あれほど高科ばかりを見ていたのに、どうしてそんな大事な事に気付かなかったのか不思議でならない。一週間のうち5日間を、ともすれば6日間を、夏の間には7日間だって一緒に居て、目が合ったほんの一瞬、振り向きざまに彼が居た瞬間、些細な彼の一言、ちょっとした仕草の中に、高科は自分をどう思っているのだろう、自分が高科に抱いている気持ちを分かっているのだろうか、そしてそのことを少しは受け止めてくれているのだろうか、と思う事はいくらでもあった。そうだったらいい、もしかしたらそういうことだってぜんぜんないわけじゃない、と思えることもあったけれど、そんな訳はない、と幾度も打ち消してきた。
「たまに、だけど、」
 高科は駿太郎の手をそっと床に置いて、両手で肘枕をした。そうして駿太郎を見ると高科の頬は少し歪む。歪んでいる笑顔はそれでも真っ直ぐに駿太郎に届いた。
「なんか、話しかけてしまうのがもったいなく感じる時があるんだよ、駿って。」
「もったい、ない?」
「んー、なんてーんだろうなあ、なんつうか、まぁ、見ていたい、って感じなんだ、とにかく。」
 歪んでいる顔を元に戻したくて、駿太郎は高科の手を払うように握る。高科はその手を握り返して、また片方の手だけで頬杖をして駿太郎を見た。高科はどんな駿太郎のことも受け入れてくれるのだろうか。こうして、自分が色んな高科を知ったように、高科も自分の色んな面を知って行くのだろう。いつか、呆れたり、愛想を尽かすようなことがあったら…不意に襲う不安を打ち消すように、まるで子どものようなことを駿太郎はつい訊いてしまう。
「俺の事、好き?」
「うん。好きだよ。」
 そういった高科の声は、とろりと甘い。少しぶっきら棒なくらいに男らしい彼の普段の声色が胸を焦がすほどの熱に溶けてこんな声を作るのだ、きっと。駿太郎はそっと高科にキスをした。キスをする前にはそんなことなかったくせに、キスした後に指先が震えたのはなぜなのだろう。


 その震えはもうとうに止まっている。キュッと拳を握って開き、高科の唇の感触を思い出す。その時、バスルームの扉がバサンと音を立てて開いた。駿太郎はドキンと胸を鳴らして、窓に映った自分と目が合う。自分から目を逸らし部屋の中へ振り向くと、テーブルの上にペンケースにしまい忘れた消しゴムが乗っていた。なぜか慌てた気分になって消しゴムをペンケースに放り込む。テーブルの周りに散らかった本を重ねて除ける。ガタリ、ゴト、ゴトンと、高科がバスルームの中で何か物音を立てている。その音がやんだかと思うと、高科が大股にバスルームから出てくる音がして、湯気と石鹸の匂いが駿太郎のところまで届くようだった。駿太郎は積み重ねた本を所在なく揃えて居室の入り口に背を向けていた。大股の足音が止まる。駿太郎は積み重ねた本の一番上をもう一度手に取って、もう一度重ねて、そして、できるだけ何でもないような素振りで高科を振り向いた。高科は居室の入り口の枠に肩を持たせかけて頭を拭いていたタオルの両端を握り締めていた。不意に振り向いた駿太郎に一瞬驚いたような表情を見せたが直ぐに優しく微笑んだ。微笑を返そうとして、急いで口の両端を綻ばせたのに、駿太郎はそれがとてもぎこちないと自分でも思った。とても緊張している。緊張。そう、緊張している。

 高科がゆっくりと駿太郎に向かって来た。風呂場からフローリングをヒタヒタと鳴らした足は今ラグの上に乗って足音が消える。でも、その足音の代わりに、今は駿太郎の鼓動がトクリトクリと鳴った。高科の一歩、一歩の効果音のように。高科が駿太郎の前で屈んだ。抱き締められると思った駿太郎は少し身を竦めた。高科はそっと腕を回す。 
 「駿、緊張、してる?」
 駿太郎はこくん、と頷いて答える。ふふっと高科は笑って、
「少し、飲みたい?」
 と訊ねた。そうかもしれない。少しアルコールを入れたら楽になるかもしれない。もう一度頷こうとしたとき、高科は腕に力を込めて言った。
「駄目だよ。言い訳なんか、させない」
 その声はいつになく真剣だった。そして、いつになく子どもっぽく、いつになく男っぽくもあった。きっとこの接吻の後に待ち受けている何かを、求めた代償や味わった後悔やそしてあるのなら受け取る苦渋も、あるいは享楽なのかもしれないけれど、アルコールのせいとか、アルコールのおかげとか、そんなこと言葉で片付けるつもりはない。多分そんなことくらい高科は分かっているのだけれど、それでも、ほんの少しの言い訳さえも許すものか、と言うその言葉は高科の揺らぎのなさや高科の潔癖さを物語っていて、駿太郎はそのことが嬉しかった。
「言い訳なんか、しない。」
 だから、駿太郎はいつもより少し大きめの声ではっきりとそう言った。伝わっただろうか。ちゃんと、駿太郎の真っ直ぐさも、清さも、高科に対する想いがちゃんと。分かっている、何もかも、自分自身が彼を求めた結果としてすべてを受け取る覚悟ができている、ということ。

 高科はもう一度腕に力を込める。高科の首に掛かったタオルが駿太郎の頬にぎゅっと押し付けられた。タオルじゃなくて、肌に直接触れたいと思う。高科は駿太郎を抱きしめたまま立ち上がろうとして、駿太郎はバランスがとれずに少しよろけながら高科の腕についていった。自由になった両腕を高科の背中に回すと、高科の背中はいつも見ているよりもずっと広い気がした。筋肉質な背中に一筋、背骨の部分がすっと引っ込んでいる。その道をずっと登っていったら、何があるのだろう。人差指でそっと撫ぜると、高科はぞくっと身体を震わせて、駿太郎をぎゅっと力強く抱いてベッドへいざなった。


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