イジワル同期の恋の手ほどき
「なあ、温泉入ってく?」
目の前の日帰り温泉の看板を見た宇佐原が言う。
「着替えとか、持ってきてないから」
「そうか、女性はそういう物が必要か?」
「化粧品とかも……」
そう答えると、宇佐原がにやにやしながら顔を近づける。
「おまえ、化粧してたのか?」
「してるよ!」
急に接近してきた顔にどぎまぎしながら、膨れてみせる。
「薄化粧だから問題ないけど、口紅には気をつけたほうがいい」
「ああ、会社に来るのにそれはないよって言いたくなるような女の子いるものね」
「それもあるけど、デートの話」
「デートのとき?」
宇佐原はにやっと笑って、涼しげにつけ加えた。
「真っ赤な口紅だと、男が困る」
「シャツについたら、なかなか取れないから?」
とうとう宇佐原はこらえ切れなくなって、笑いだす。
「鈍いやつ。キスした後が目立つからだよ」
予想外の答えに口が勝手にぱくぱくして、次の言葉をつなげられない。
「心配するな。いつもおまえがつけてるような、ナチュラルなのだったら、平気だから」
笑いを含んだ、色っぽい目で言う宇佐原の言葉に、さらに胸が高鳴る。
私の唇をいつも見てるってこと?
真っ赤になる頬を隠すように押さえていると、ますます笑う宇佐原。
「もうちょっと、大人の駆け引きとか勉強したほうがいいぞ」
「うう……」
「まっ、そういう慣れてないところも、いいけどな」
絶え間なく続く、宇佐原のからかいにプーっと顔を膨らませる。
「どうせ、色気なんてないですよ」
「まぁ、本番ではスカートのほうがいいかもな」
「ピクニックなのに?」
驚いて聞き返す。
「そうさ、風に煽られて、キャーとか言うのも、お約束」
「宇佐原、私、無理、そういうの」
宇佐原が突然太ももの真ん中に手を置くから、「ヒャッ」と数センチは飛び上がった。
「おいおい、大人の女はにっこり微笑み返すんだ。しかも、ズボンなんだから」
「あっ、だからスカートがいいんだ」
「そ。男は隙あらばと狙うものなの。そして、女は隙をつくらなくちゃいけない」
「なるほどね」
宇佐原のデートレッスンは、庭園に着くまで続いた。
駐車場からエレベーターで地上に出ると、なにやら不思議な建築物で、一番上まで上がるにはさらにエレベーターを乗り継ぐ。
巨大な花壇、いや段々畑のような構造のコンクリートで作られた円形劇場のような庭園にただ目を見張るばかり。
目の前には海が広がっていて、ここから見る景色は、絶景だった。
「前衛的すぎるから、人があんまりいないんだね」
正直な感想を漏らす私に、宇佐原は「しっ」と遮る。
「いつも言ってるだろ、悪口言う時は、百メートル離れてからだ」
「はーい」
エレベーターで下に移動し、入った植物園はさらにさらに謎めいていた。
熱帯に寒冷地帯、東屋、なんでもありの園内で、「なにこれ?」と言い合うのも楽しい。
きっとこれまでにない植物園を作りたかったのだろう。
こういう感覚が宇佐原とは似ているので、話が合う。
歩き疲れて車で向かったのは、庭園から十分ほど走ったところにある『道の駅』。
ご当地サイダーと枇杷キャラメルを買い、ソフトクリームを食べている時、宇佐原が持っている手を引っ張る。
「あっ」
私の非難の声を無視して、思いっきりかぶりついて、いたずらっぽく笑う。
「ソフトクリームは、色っぽいって知ってるか」
「えっ、どこが? 形?」
ソフトクリームを傾けて見ようとすると宇佐原が噴き出す。
「バーカ、舌を出してなめる仕草が、だよ」
そんなふうに考えたことはなかったから、舌を小さく出したり引っ込めたりして考えていると、「まぬけづら」とほっぺたをつつかれる。
今日の宇佐原はなんか変だ、それにスキンシップがやたらと多すぎる。
プライベートだからかな?
「おまえ、ほんと、純粋培養だな。男と付き合うのが、どういうことか、わかってるのか?」
改めて確認されて、ぐっと言葉に詰まる。
「……やっぱり……男の人って、経験豊富な人が好きなのかな?」
真面目な顔で聞くと、宇佐原は言った。
「まあ、そういう奴もいるかもな。でも、俺は一から教えるほうがいい」
「えっ?」
なんか意外。宇佐原は大人の恋愛を楽しむイメージだったから。
「いや、俺の意見はどうでもいいよな」
宇佐原が慌てて目を逸らす。
「なぁ、まだ時間大丈夫?」
「うん、大丈夫」
「じゃあ、見ていくか? サンセット」
「うん」
笑顔でうなずいて、『道の駅』から川縁の散策路に下りて、並んで座った。
河川敷がウッドデッキになっていて、ちらほらとカップルが階段に座っている。
遊歩道になっている対岸には、犬の散歩をしている人やジョギングをする人が小さく見えた。そのはるか遠くに広がる里山に夕日が沈もうとしていた。
「なぁ、泉田さんのどこがいい?」
宇佐原に突然聞かれて、口ごもる。
「どうしたの? 急に」
なんで今、そんなことを聞くのだろう。今はそんな話、したくないのに。
「いや、ちゃんと聞いたことなかったから」
「ええっと……。仕事に対する姿勢かな?」
「どういう?」
「人が嫌がる仕事も黙々とこなして、いつもニコニコしてて、誰にでも優しくて、それから……さわやかで、あったかくて?」
「ふーん」
「そういえば、宇佐原はいないの? 好きな人とか」
「いる」
からかうつもりで問いかけた言葉に、あまりにもストレートな答えが返ってきて、拍子抜けした。
いつの間にそんな人できたんだろ。
全然気づかなかったな。
「ええーっ、いるんだ。誰?」
胸が変なふうに痛むのをごまかすように言った。
「それは教えない」
「なんで?」
宇佐原はなんでも話してくれていたのに、なんで教えないとか言うんだろ。
それくらい大事にしたい人なのかな。
「俺をじっくり観察してたら、わかるはずだ」
宇佐原がやわらかな光が揺れる川面を見つめたまま答える。
「無理だよ。そういうの、苦手って知ってるでしょ? ねえ、ヒントは?」
宇佐原に女性の影を感じたことは一度もなかった。
バレンタインに山ほどチョコレートをもらっているのは知っていたけど、朝も帰りも毎日のように一緒に帰っていて、そんなそぶりを見せたことがなかったからまったく気づかなかった。
「なし」
「ねえ、いつから?」
「さあ、いつからかな。気がついたら、いつの間にか、かな」
そう言って宇佐原がじっとこちらを見つめる。
「告白はしないの?」
「相手の気持ちが、見えないからな」
「人にはさんざんけしかけといて、そこはお手本見せてくれないと」
わざと冗談めかして言ったのに、宇佐原はさっきからずっと静かなトーンのままだ。
「お手本か。俺も自分のことになったら、必死なんだ。今の関係、壊したくないしな」
また、大きな目でじっと見つめられて、いたたまれなくなる。
関係ってなに?
そんなに親しい人がいたの?
その人ともこんなふうに出かけたりするの?
聞きたいことはいっぱいあるのに、言葉にならない。
「だったら、私なんかとドライブしてたら、まずいんじゃない?」
宇佐原が、「なんで?」と不思議そうに聞き返す。
「だって、誤解されたら、困るでしょ? その人に」
「おまえは、困るのか?」
逆に宇佐原に聞き返されて、ドキッとする。
「私は大丈夫。宇佐原とは同期だから仲いいって、みんな知ってるから」
なんでもないふうに言うと、宇佐原はすっと視線を逸らした。