月夜の逢瀬~皇太子様と紫苑の姫君~



──その報せが私のもとに届いたのは、浮かぶ月がかなり細くなっていた頃、私が房に寝泊まりするようになってから十日ほどの時間がたっていた日だった。


「……そう、お父様が……」


重い面持ちで、わざわざ山荘から出て知らせに来てくれたばあやに、しかし私は冷静な反応を示した。


──父様が、昨日の早朝、亡くなったらしい。


死因は老衰。もうかなりお歳だったため、衝撃はあまりなかった。


と言うか、実の父と言えど、会うことなどあまりなく、何か反応しろという方が難しいと思う。幼い私の手を引いてくれた優しい父は、もう過去の人だったのだから。


うまく実感がわかないまま、ぼんやりした思考のなかでそんなことを考えた。


そんな私は、冷めたい人間なのだろうか。


「わざわざここまで……ありがとう、ばあや」


思考がしゃっきりしていないからか、いつも以上に平淡な声が出る。


「……いや、話はこれだけじゃないんだ」


てっきりこれで話が終わったのかと思っていたが、しかしばあやはまだ本題が残っていたらしい。


「……と言うと?」


私が促すと、一つ頷いてばあやは話し出した。


「実はね……藤波家の方で、三笠家はかなり嫌われていたらしくて、今まではそれをお父上がおさえていたらしかったんだ」

「……そう……だったの……」


思いがけないことを言われて、うまく返事ができない。


自分の家が嫌われていたことに驚いているのではない。そんなのはもう、とっくの昔に気がついている。


藤波家ほどの大きな家にとって、三笠家のような没落した家は、さながら不吉をもたらす疫病神のようなもの。当然恐れられ、煙たがられる。──ここ、内裏でも。


私が女房の間で浮いているのもこのせいだし、それは仕方のないことだ。


誰だって、没落したくないのは同じ──それに恐れ、悪い“気”がうつるのではないかと疑心暗鬼になるのも仕方がないこと。


私が意外だったのは、父上がそれをはねのけてまで母上を住まわせていたこと。


他に妻もいて、お渡りになることもなくなっていたのに、何故……。


そして、ばあやはさらに続けた。


「しかし、そのお父様の保護を失った今、藤波家にいる母上は、今すぐにでも出ていかされようとしている……らしい」


「そんな……」


思わず絶句した。


そんなのひどい。父上が亡くなったこと、母上はとても悲しんでいるはずなのに、それすらも赦されず出ていかされるなんて。


沸々と怒りをわかせる私を複雑そうな顔で見て、ばあやはさらに話す。


「恐らく……私が住んでいるのあの山の家も、お父上から借り受けている。藤波家の所有物に、このまま住んでいるわけにはいかないだろうね」


「…………」


何も言えなかった。


だってそれは──私たちが、これまで通りの生活をすることすら赦さないということだもの。


少し、息を整えて、それから吐き出した。


「……あそこを出ていかなければならないのね。……そしたら、どうすれば……」


私の言葉に、ばあやの顔の皺が益々深くなる。


「……私たちで暮らしていく、としたら、お前の収入に頼るしかないんだ」


「……私の収入……」


思わず溜め息をつきたくなった。


私たちの間に、重苦しい沈黙が降りる。


と、そこに。


「……藤侍従、ちょっと」


部屋に飛び込んできたのは、焦った様子の橘左少史だった。


「ちょっと、来て……」


私はばあやと顔を見合わせたあと、「ちょっと待ってて」と言い残し、彼女に着いていった。





**





「すまないね、突然呼びつけてしまって……」


そう言って柳眉を下げるのは、私を呼んだ張本人、尚蔵(くらのじょう)の右近内侍(うこんのないし)さん。


尚蔵とは、役所としての蔵司の一番偉い人で、私たち掌蔵や典蔵の直属の上司にあたる。


そんな彼女に今呼び出されたということは恐らく、あまりよくない話題なのだろうと容易に想像はつく。


「もう聞いたかもしれないが……お父上が、なくなったそうだ」


彼女の言葉に、私は何も言えず頷いた。


「君の働きはよく目にしているし、大変素晴らしいものなのだが……、君が宮仕えをしているのは、君のお父上の口添えによるものだと言うことは知っているね」


「はい」


何となく、その口ぶりから、これから言われるであろうことがわかってしまった。


恐らくは……。


「……そのお父上が亡くなった以上、君は三笠家の姫君という扱いになるんだ」


没落貴族の、三笠家の姫君……。


「……辞めろ、というお話ですね」


理解した途端、どうしようもなく、沈みきった声が出た。


ばあやは、母上は、私は、これからどうなるのだろう──。


右近内侍さんは苦しそうに頷いた。


「……すまない。私にもう少し力があれば良かったのだが……。……君は、若穂宮様と面識があるんだろう?」


突然話題に登った音人様の名前に、私は目をしばたたかせた。


恐る恐る頷くと、なお悲壮な表情で右近内侍さんは俯く。


「宮様の妃候補のお方から、強い要請があってね……君の存在を危惧したらしい」


……そういうことか。


確かに、音人様の周囲に、三笠家の影はちらつかせない方が良いに決まってる。


私は──頷くしかなかった。


「……時間を下さい。準備をしなければなりません」


そうする他に、道はないのだろう。


音人様のためを想うなら。


「……しかし、まだ……」


何かを言いかけた彼女に、深く頭を下げる。


そのまま部屋を出て、襖を閉めた。


──右近内侍さんの声を、私の未練を、絶ちきるように。


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