月夜の逢瀬~皇太子様と紫苑の姫君~
それから、ばあやと二人でまっすぐ家に帰った。
事情を説明すると、ばあやの顔がどんどん苦しげになっていって──そのあとで、一言漏らした。
「あとは寺に頼るしかない」──と。
寺……つまり私たちは出家して、尼となるのだ。
聞けば、藤波家の方からもともと紹介されているらしくて……確かに、身よりも収入もない私たちが生き延びるには、それしか道はなかった。
そして着いた、家。
最低限の荷をまとまるためだけに訪れて──恐らくは、もう来ることはない。
出発は、明日になった。
内裏に寄って、私が退職の届けをだして、母と合流してから寺に向かうという。
今日は新月らしい。空に、いつも私を見ていた月の姿はない。
(この眺めも、今日で見納めね……)
自分の部屋から、いつものように庭を眺め、私は溜め息をついた。
明日には、この家も売られてしまうという。
山小屋と言われるほどの質素な家だから、どんな人が買ってどんな風に使われるかはわからない、けれど……。
どうか、この眺めを。
この月を。
慈しみ、いとおしんでほしい。
(父様……)
一人になっていると、ようやく、父を亡くした実感のようなものが芽生えてきた。
殆ど関わりのなかった父。
いつでも仕事に追われていて、でも、たまに出逢うと微笑みかけてくれた幼少期の思い出。
父は……母を、愛していたのだろうか。
私が宮仕えを始めるときに口添えしてくれたのは、父親の責任からか、それとも情なのか。
聞きたいことは、沢山あったはずだった。
(もう二度と叶わない、けれど……)
いつも後から悔やむ。私の悪い癖でしかない。
息を吐き出して、もう一度庭を眺めた。
(音人様……)
こうしていると、やはり思い出すのはあの方のこと。
恐らく……いや、絶対に、出家してはもう二度と会うことはないだろう。
──このくらい、強制的にでなければ、忘れることなど出来ないのだろうから、逆に良かったのかもしれない。
私は、とめどなく溢れる感傷を押さえるために、立ち上がって襖障子を閉めた。
月の光が、それによって薄く遮られる。
……さあ、荷をまとめてしまわないと。
私は、止めていた手を再開させた。
──ガサッ
と、不意に感じる何者かの気配。
な、に……?
今、確実に音がしたであろう方向を、恐る恐る音が振り返る。
そこの、障子にうつっていたのは。
その、人影は。
(嘘……!!)
嘘だと思った。
錯覚だと思った。
思い違いだと思った。
──しかし、嗚呼、私にはわかってしまった。
あの影は、音人様のもの。
(どうして……)
今さら、どうして、私などのところへ?
言葉が堰をきって溢れてきてしまいそうで、唇をかたく結んだ。
「紫苑の君……」
宵闇に、声が響く。
「いるのだろう?……何故、私を避けていた……?」
どこか不安そうな、心もとない、音人様の声。
私は、何も言えなかった。
「そなたを、怒らせてしまったのか……?不快にさせて、しまったのか……?」
嗚呼、音人様。
そんなに、切なげな声を出されないで。
私の方が、切なくて張り裂けそうになってしまう。──けれど。
「お帰り下さい……」
私は、静かに口を開いた。
会うわけには、いかないから。
貴方を、忘れなくては、いけないから。
「……紫苑の君!……もう一度で良いのだ。そなたの顔を見て、話したいのだ……」
(音人様……)
声を聞いているだけで、涙が出てしまいそうだった。
まだ、私なんかに、会いたいと言ってくれるなんて……。
嗚呼。
障子の向こうで、音人様のしているであろう柳眉を下げた表情も、すっかり眼裏に描くことが出来る。
それでも……それでも。
ここでけじめをつけなくて、どうするのだ。
私は、声が震えないように気を付けながら、口を開いた。
「……会うことは出来ません。……もう、終わりにしましょう?」
息を吸って、吐く。
唇に、ゆっくりと乗せる。
終わりへの、小さな歌を。
「私のことなど……覚えている価値もありませぬ。どうか……どうか、お忘れくださいませ」
最後の、一言を。
「どうか。……宮様」
宮様。
『音人と呼んではくれぬか』
私たちの間の絆を、繋がりを、絶ちきる言葉。
あの頃の思い出を、否定する言葉。
音人様の願いを……私が、拒む言葉。
「…………」
音人様は、しばらく驚いたように、そうしていたが。
「……わかっ、た」
──やがて、小さくそう残すと、二人微かな音をたてて、去っていった。
(音人様……)
私の頬に、涙が一筋伝った。
(ごめんなさい、音人様……)
本当は、私が泣くべき資格などないのだろうけれど。
今だけは……涙を流すことを、許して頂けますか。
貴方を突き放した私だけれども、──まだ、貴方を想うことを、赦して頂けますか。
やがて、音人様の気配が完全になくなった頃。
「……良かったのか」
静寂を切り裂く声が、私にかかった。
「ばあや……」
聞いていたの、という問いは飲み込んだ。
ばあやはきっと……全てを知っているようだったから。
「別れは告げなければならない。が……、あんな形で、良かったのかい」
「……?」
私は、涙でぼやけた目でばあやを見つめた。
なおも、ばあやは続ける。
「あの方を……傷つけたままで、良いのかい」
「傷つけ、る……?」
その言葉を繰り返すと、ばあやは静かに頷いた。
「お前が内裏で寝泊まりしている間も……あの方は、お前がもしかしたらいるかもしれないと毎日来ておった」
「……!」
そんな。
音人様が、来ていたなんて。
「会いとうないと告げたお前の泣いたような声が忘れられず、お前を苦しめたのではと、たいそう心を痛めておった」
「音人様……が……」
突然そんなことを言われても、思考がうまく追い付かない。
「今ならまだ……なんとか出来るかもしれないぞ」
ばあやがそう言い残して部屋から出ていったあとも。
私はしばらく、その混乱した頭を引きずっていた。