月夜の逢瀬~皇太子様と紫苑の姫君~
──そして、夜の帳が降りて。
ばあやに促され、私はいつもより早めに自分の部屋に入った。
襖を開ける音が、いやに大きく感じられて、そんなわずかなことにも胸が大きく音をたてた。
──これから、宮様が、いらっしゃる。
そのことだけで頭がいっぱいに満たされているはずなのに、不思議なほど、実感はわいていなかった。
信じられないもの。だって、まさか自分が皇子である若穂宮様と知り合うなんて思ってもみなかったのだし。
……不思議な、方だった。
声を聞くだけで、浮き立った心が落ち着くような、そんなお方。
だから、懐かしいなんて思ったのだろうか。
部屋の中心に座り、色々と物思いに耽っていると、やがて裏の庭に面した障子に人影がうつった。
(……本当に、いらっしゃった)
まだどこかで信じられないけれど、私は迎えようと腰をあげる。
「……紫苑の君、参ったぞ」
聞こえてきた声は、やはり落ち着いていて、昨夜聞いたものと同じもので。
「……お待ちして、おりました」
影に向かって声を出すと、す……と静かな音をたてて障子が横に開かれた。
満ち半ばの、上弦の月の光を背にして立つ、宮様の凛としたお姿に、思わず目を奪われた。
「突然歌を送ってしまって、驚いただろう。すまない」
障子を閉め、私の正面に立った彼は、まずそう言って目を伏せる。
「そんな……宮様が、謝ることではございませぬ」
そう言った自分の声が、この空間に呑みこまれていくような錯覚を覚え、いやが応にも、ここに二人きりなのだと意識してしまう。
(……やはり、宮様がここにいらしたということは、そういうことなのかしら)
ふと思ってしまう。いくらこういった経験に乏しい私でも、このあと男女が何をするかは知っている。
あの宮様の声を聞いているのにもかかわらず、変に響き始めた鼓動を意識して、私は戸惑った。
「どうしても、そなたに礼が言いたくての。あのように他の者がいる場では伝えられぬと思って、参ったのだ」
そんな私に気付かないようで、宮様は声の調子を変えずに続ける。
「礼など……本来、私こそ出ていけば良かったのです。そんなにお気になさらないでください」
私はそう言ったけれど、彼は動じた風もなく言う。
「いや、本当に助かったのだ。実はあの時、女官に追われていてな……そなたが部屋に入れてくれなければ、つかまってしまっていた」
「……何が、あったのです?」
“つかまってしまう”などと言う不穏な言葉と、女官がいまいち結びつかなくて、私は聞き返した。
「いや……実は、父上が妃をとれとうるさくてな。毎夜女官を仕込んで来るのだ」
「まあ……」
なんとも生々しい話題に相槌を打ちつつ、私はなんとなく悟っていた。
……ああ、この人は、本当に、純粋にお礼が言いたくてここに来たのだわ。
間違っても恋情などありはしない。あったらこんな話はしないわ。そんなものを一瞬でも考えてしまった私が、愚かだったのだわ……。
もともとわかっていたのだけれど。私は一介の、女房でしかないのだから。
そう、自分に言い聞かせて、何とか言葉を発する。
「逃れてしまって、良かったのですか?今日も、こんなところにお出でになって」
「……確かにそうであるな。しかし、そういう類いのものは自らで決めたいのだ」
そう言う宮様が、少しだけ気まずそうな顔をするのを見て、私は慌てて撤回した。
「申し訳ございません。私、偉そうなことを言ってしまいましたね」
けれど宮様は、首を振って気にしていないという様子で言う。
「いや、良いのだ。私にそんな風に素直に物を言ってくれる者はいない。紫苑の君は、私に我慢せずなんでも言ってくれ」
「……しかし……」
我慢せずと言われても、あまりに恐れ多いことなので、私は否定しようとした。
しかし。
「良いのだ。私がしてほしいと言っている。それとも、どうしても拒否したいという強い理由があるのか?」
……そう、言われてしまっては。
「……わかり、ました」
私は渋々、頷いた。