月夜の逢瀬~皇太子様と紫苑の姫君~
* * *
翌日。
牛車にのって内裏に到着し、いつものように蔵司に着くと、すぐさま橘左少史が駆け寄ってきた。
なんだか機嫌が良さそうだなと思っていると、何故か顔を寄せられ、耳元に囁きかけられる。
「おはよう藤侍従。聞いたわよー、昨晩はどうだったの?」
「……え?」
思わず聞き返す。今、何と訊かれた?
「とぼけるんじゃないわ。もう噂は出回っているのよ?宮様がお渡りになられたのでしょう?」
「……えっ?」
今度は、先ほどとは違った意味で思わず聞き返してしまった。
「……ど、どうして……噂?嘘でしょう?」
「嘘なんかじゃないわよ。あ、でも安心なさい。貴方の名前が大々的に広まっているわけじゃないから。ただ、山の方に住んでいる蔵司の女とだけ……」
「…………」
私は絶句した。そこまで情報が漏れているなら、私の名前が出ているものと大して変わらないじゃない。
「驚いているけれど、そりゃあ噂にもなるでしょうよ。妃候補からも姿をくらます宮様が、女のもとへお渡りになるなんて初めてのことなのだから」
「はじ……めて?」
身体にうまく力が入らなくなりながら、私は呆然と言葉を反芻する。
「そうよ。──それで、どうだったの?いつ、宮様と知り合っていたの?」
興味津々といった彼女から目をそらし、私は言った。
「どうもしないわ──貴方が思っているようなことは、何も。彼は私にお礼を言いに来ただけだったのですもの」
橘左少史は首を傾げた。
「そうなの?でも、お礼を言うために、わざわざお渡りになるかしら?」
「きっとそうなのよ。……だって、指一本も触れられなかったのよ?」
──そう、私も、お渡りになられたのだから、そういうことがあるのかと思っていた。
けれど、音人様はその後も他愛もない話を続け、空が白み始めてきた頃、帰っていったのだ。
──本当に、話すためにきたというように。
それでも、少し安心してしまっている自分がいるのも確かで。
昨夜私が逢った音人様は、あの幼き日の面影を残すものであった。
彼が無邪気に話すさまを見ている時間は、何だかとても満たされるものだった。
だから。
「……もう、良いわ。何もなかったのだもの。この話はおしまい」
無理に話を切り上げて、私は自分の机に向かった。
* *
その日の仕事を終えて、私はまた家に帰っていた。
こんなに気の進まない帰宅は、初めてのことかもしれない。
見慣れたはずの門構えを見つめ、思わず溜め息をもらした。
理由は言わずともがな、音人様のせいであろう。
昨日の夜はとても長く、さらに楽しいものだったから、日常に戻るのにどうしても抵抗を感じてしまうのだ。
そしてこの屋敷の外見も、こんなに気にしたことは初めてだろう。
今まで、「狭苦しい貧相な小屋だ」と何人に言われてきたこの山荘を、彼はどのように思ったのであろう。
──嗚呼、気がついたら、こんなにも音人様に心を支配されている。
彼にとっての私なんて、ただのとるに足らない身分の低い女房でしかないはずなのに……。