月夜の逢瀬~皇太子様と紫苑の姫君~
──そう、あれは、まだ母上が、父上に愛されていた頃のこと。
私が六つになったばかりだったか、父に連れられて御歌会に参加したことがあった。
周りは大人ばかりで、最初は私の手を引いてくれていた父上も、色んな方とご挨拶をしているうちに、それを放してしまっていたのだ。
同時父上は内裏で従三位という地位にいたため、当然顔見知りも多く、周りにはいつも人垣ができていた。
幼い私は必死にあとをついていたけれど、とうとう追い付けずに、いつしかはぐれてしまって。
途方にくれて、でも泣き喚くわけにもいかず、とぼとぼと会場の庭園を歩き回っていた。
──そんな私に、いきなり、声をかけてきたのだ。
『そなたも一人なのか?』
歩き回ったのだろうか裾の汚れた上質な着物に、はつらつとした顔、明るい声。
自分以外にも同い年くらいの子が来ていたのかと、少し驚いてまじまじと相手を見つめたのだっけ。
……嗚呼、覚えている。確かに、どこか雰囲気や面影が似ている。
『大人たちと一緒にいてもちっとも面白くない。そなたもそうだろ?そうだ、魚が沢山いるんだ。向こうの池に見に行こう』
今にも泣きそうで、何も言えなかった私に一方的にそう言い、彼は私の手をひいて歩き出した。
そして、池で魚を見て、木に登ろうと言われたのだけど私は登れなくて、珍しい花があるんだと連れられて。
……懐かしい。そうだ、そんなことがあった。遠い、でも輝いている記憶。
そして、綺麗な紫色の花をもらったのだっけ。
『……この花、そなたに似合いそうだから、あげる』
にっこりと、眩しいばかりの笑顔で、渡されたのだ。
『ありがとう、えっと……』
お礼を言おうとした私は、名前を知らないことに気がついて、言葉を詰まらせて。
そして、名乗られたのだ。
『音人、だ。音人と呼んでくれ』
──音人、様。
懐かしい。確かにあの会は、皇子である彼も参加していておかしくないものだった。
『そなたは、なんと言うのだ?』
『私は、弥生』
『そうか、弥生と言うのか……』
──今はもう、殆ど呼ばれることのなくなった名前。
音人様、貴方は、御歌会で出逢った弥生という名の少女のことを、覚えておいでですか──。
「──紫苑の君、どうした?何を憂いた顔をしておる?」
静寂を破った、落ち着いた声に、私は思わず飛び上がった。
彼の顔が、私を覗き込むように、すぐ近くにある。
「な、何でもありませんっ……」
音人様。
続けて言おうとした彼の名前は、何故か喉の奥に引っ掛かったようにして言葉にはならなかった。
同時に、視界にちらつくのは幼き日の面影。
……だめ。思い出しては。
知られては、いけない。
強く、そう思った。
彼に思い出させてしまっては……私の中で、何かが取り返しのつかないことになってしまう。
……幼き初恋なんて、忘れなくてはいけない。