婚カチュ。
呼吸ができないくらい心臓が響いて、顔が火照る。
地下鉄のマークが青く光る階段の入り口で、広瀬さんはわたしに向き直った。
「それじゃあ、ここで」
「え、電車に乗らないんですか」
目を丸くする私に、
「俺はフェリースに戻ります」
まだ仕事が残ってるんで、と言って、表情を和らげる。
「お気をつけて」
そう言うと、広瀬さんはきびすを返した。
深海にもぐっていくように坂道を降りていく細い背中を、じっと見送る。途中、広瀬さんは一度だけ振り返り、やわらかく微笑んだ。
心臓の鼓動が痛い。
どうせ相談所に戻るのに、なんでここまで歩いたの?
なんのために?
疑問が頭の中を飛び交う。
お月見を――
でも、ここからじゃ月は見えない。
切り立ったビルに覆われて、月はもう、どこかに消えてしまっていた。