婚カチュ。



松坂の表情も、スーツの色も、わたしの戸惑いも、すべてが暗がりに紛れてしまい、夢のなかのように質量を感じなかった。

かすかに覚えたぬくもりと、控えめに香る香水の匂いだけが現実的だ。



一度、背中に両腕を回されて、ぎゅっと、抱きしめられたような気がした。
しかしすぐに後輩の体温は消え去り、その場に立ち尽くしているあいだに光が降り注ぐ。
 



いつの間にか入口まで戻っていた松坂が、蛍光灯のスイッチを入れてこちらを見ていた。
いつもの人好きのする顔で笑う。


「先輩、帰りましょう。用事があるんでしょ」

「あ……うん」
 



さっきのはいったいなんだったのか。
 

本当に夢でも見ていたのかと思うほどに、松坂はあっけらかんとしている。
わたしをエスコートしながらエレベーターに乗り込むその顔には、いつもの人懐こい笑顔があった。
 

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