やくたたずの恋
「どうした? 星野さんのところで、何かあったのか?」
「……何でもないです」
 雛子は首を振る。そのリズムが、ネジの切れそうな振り子のように老いぼれている。
「何にもなかった割には、顔色が悪いぞ。何かあったんじゃねぇの? BカップがAカップになっちまったとか?」
 今の雛子にとっては、恭平の戯言もただの記号でしかない。AだのBだの、そんなものは、無意味な座標の一点か、地図記号としか思えない。
 雛子は自ら掘った穴に入り、出ようとはしない。向かい合わせに座った恭平は、その穴を覗き込み、吐き出した煙に尋問の罠を散りばめる。
「そう言えば最近、連日のように星野さんから予約が入ってるよな? どうしたんだ?」
「あ、あの、それはですね、ダンスの練習をしてるので……」
「ダンス?」
「はい。星野さんのリハビリを兼ねて、車椅子でダンスをしてみてはどうかなーって思って、提案してみたんです。そしたら星野さんが、承諾してくださったものですから」
「ふーん。お前、ダンス、踊れるのか?」
「はい。そんなに上手くはないですけど、よく祖父の相手をさせられてはいたんです」
 話しているうちに、雛子の顔色が元へと戻り出す。石膏の胸像のように乾いていた表情には、やっとのことで血が通い始めていた。
 これなら大丈夫だろう。安心した恭平は、煙草を灰皿に押しつけ、立ち上がった。
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