たったひとりの君にだけ

もう、あのマンションにはいられないだろうか。


「……芽久美」


返事をしない。
正しくは出来ない。
脳内をエンドレスで巡っていくマイナスの思考の所為で顔を上げられない。


広い家に一人でいても早く帰って来てとは思わなかった。
一人の食事に慣れたことに気付いた小3の冬、私はメイドが作ったビーフシチューを前に一人笑った。
勉強だって首席を走り続けて、論文が評価されて意味のない学長賞を貰ったり、就職活動も第一希望を叶えたり我が道を生きて来た。

だからこそ思う。


自分がこんなダメ人間だったなんて。


「芽久美、聞いてる?」

「……聞いてる」

「そりゃよかった。っていうか、私達ももう立派なアラサーでさ、確かに、この年になると傷付くの恐れちゃうよね。それはわかるよ」


3ヶ月先を行く瑠奈に、私は直に追い着く。

出会って丸9年になる。
時の流れは驚くほどに速い。


「だけど、芽久美」


一際真剣な声に心臓がドクンと反応する。
そして、瑠奈は自信満々に、力強く口にする。



「もう、遅いんだよ」



けれど、話の流れ的に、瞬時にその言葉の意図を掴めなかった。
そんな私をよそに、彼女はそのまま話を続ける。


「私、芽久美と付き合い長いけど、こんな芽久美は見たことない。ほんっと貴重。動画に残したいくらい。そんなに好きなのに今更諦められるの?ね、マスター。見たことないよね?」

「ああ、ないな。瑠奈は飽きるほどあるけど」

「もう、私の話はいいってば!」


話を振られた先、ちらっと上目遣いでカウンター越しのマスターを見ると、相変わらずの煙草片手に軽く笑みを浮かべていた。
その仕草や表情は、贔屓目なしにかっこいい。

これから先も、恋愛対象にはなり得ないけれど、マスターはきっと、いつだって私達の味方でいてくれる。

それは、9年経とうとしている今も、私達が変わらずここを訪れていることが何よりの証拠だ。
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