たったひとりの君にだけ

だけど、ここで簡単に引き下がれないことを、私は痛いくらいにわかっているから。

瑠奈、マスター、実加ちゃん。

そして、樹の顔が思い浮かぶ。

怖気づいてなんかいられない。
背中を押してくれた彼等の為にも私にはやらなければいけないことがある。

右手に力をこめる。


勿論それは、自分の為にも、だ。


「元気に、してた?」


本題を切り出す前、手始めと言わんばかりの当たり障りのない一言。
実際は、会えたらどうやって話を進めようか、一生懸命脳内でリハーサルして来たはずだけれど。


「……はい、一応」


それでも、答えてくれたことにほっとする。


「……うん、よかった」

「芽久美さんは……?」

「え、私?私も、元気。風邪は、あの日以来、引いてないし」


努めて明るく答えたけれど、自分で言った直後に何故か無性に切なくなった。

本気の心配顔と本気の笑顔。
1から10まで全て見ることが出来て、逆に私もスッピンや弱っているところまで見られて。

怖いものなんて何もなかった。


「……本当に、久し振りだね」


だけど、今はいろんなものが怖い。

それは、無意味に同じ台詞を繰り返してしまうほど。
こういうときは何を意味するか、少なからず彼だってわかっているはずだ。

続かない会話。
こんなの初めてだった。


いつだって高階君は自分から喋ってくれた。

彼らしい笑みを浮かべながら、ときには真面目な顔も見せてくれる。
私が何も話さずにいても、主導権を握ってくれた。

くだらない話題。
尽きることはなかった。

でも今は、その彼が何も喋ってくれない。
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