たったひとりの君にだけ

「……手、離して」

「離しません」


結局はこれに尽きると、意を決して口にした一言も彼は呆気なくつき返す。

そして、バカにするように力が強まる。
その言動に、私は半ば意地にならざるを得なかった。


「離して!」

「離さない!」

「なんでよ、もういいでしょ、もうほっといって!」

「目の前で泣かれて放っておけるわけないじゃないですか!」

「泣いてる女だったら誰でもいいわけ!?ああ、そうなんだ!」

「そんなこと言ってないじゃないですか!」


勢いのまま、久方振りに正面からその目を見ることが出来たと思えば。
私達は大声でくだらない言い合いを始めるだけ。

いつかのように、隣の部屋から眉間に皺を寄せた誰かが出て来そうだなんて危惧は一切脳裏を掠めずに。

やられたらやり返す。
完全に売り言葉に買い言葉状態。


けれどもう、後には引けない。


暫しの間、見つめ合う。

正しくは“睨み合う”で、勿論、冗談でも甘い雰囲気なんてものは漂うはずもなく。
そこに、明らかな怒りの表情が浮かび上がっていたのに。
私は投げやりな気持ちで思ってもいないことを口にした。


もうここにいたくない。


だからこそ。
目を逸らして微かに呼吸を整えた後で、私は力強く言い放った。



「……もういいから!……もう、私のことなんかほっといてよ!」



廊下に響き渡るほどの、今日一番の大声は半分は本音で半分は意地だった。

手首が解放されるのを待つ。


自分で言って虚しくなった。

自分で自分を傷付けて、こんなことになんの意味があるの。


プリンタルトなんか作るんじゃなかった。
メールなんか送るんじゃなかった。

来るんじゃなかった。
好きになるんじゃなかった。


一緒にクリスマスなんか過ごすんじゃなかった。



「……べよ」



地を這うような低音を聴覚が捉えた。
思わずこっそりと彼の様子を伺うと、背後から漂うオーラが尋常じゃない黒さを帯びていた。

嫌な予感が全身を覆う。
そして、私が思わず息を飲んだと同時に、彼は叫んだ。



「ほっとけるわげねえべよ!こったにおめえのこと好きなんだから!」



奴は、キレていた。
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