たったひとりの君にだけ
リビングへ繋がる扉は閉まっている。
マンションの廊下ほどではないものの隔離されたこの空間も幾らか冷気が漂っていて、白い息までは出なくても彼の息音が静かに聞こえる。
逃げようと思えば逃げられる。
背中に密着したドアの取っ手を、後ろ手に回して押せばいいだけの話だ。
けれど、今は、その行動になんも意味を見出せない。
私は心を決めて、ぎゅっと左手に力を込めた。
すると、ふうっという鼻から抜けるような音が聞こえた後で、思わず体を無意味に引くと彼は落ち着いた声でこう言った。
「……ずっと好きですよ、芽久美さんのこと」
俯く私の頭上に落ちた一言。
呼吸が止まった気がした。
無意識とは言えど瞬きなんてものは忘れて。
私は心臓が鼓膜と直結しているかのような高鳴りを感じていた。
けれど、彼の言葉が倒置法だったと思い返せるまで、意外にも私は冷静だった。
ここでもう一度その台詞を口にする?
不意打ちにもほどがある。
先手を打たれて力が抜けた。
ここで意地っ張りを続けるほど無神経じゃない。
「……じゃあ、どうして」
「え?」
「どうして、メール、返してくれなかったの……」
一番聞きたかったことを、ようやく口に出来た。
語尾になるにつれて消え入りそうな弱々しい声でも、超のつく至近距離。
聞こえなかったはずはない。
「それは、」
「……押してもダメなら引いてみろだったとか、そんなこと口にしたら許さないから」
低音で久方振りの悪態をつくと、彼は全力で否定した。
正面からの威圧感。
只ならぬ勢力。
勝てる気がしなくて、何も言い返さずに彼の本心を待つ。
すると、観念したように重い口を開いた。
「……芽久美さんが、フランスに行くと思ったから」
それは細く弱い声色で。
私が遅れて小さく聞き返したのは言わば必然だった。
「振られるんだって思ったから。……メール、出来なくて」
そして、彼は全く変わらない音量で続ける。
話が全く読めなくて、ゆっくりと彼の顔を覗き見る。
すると、そこにあったのは明らかな辛苦の顔で。
私はうんともすんとも返せなかった。