たったひとりの君にだけ
それなのに。
「……芽久美」
一人ハッキリ完結させて、脳内を改めて整理した私の耳に届いた、落ち着いた声で囁くように呼ばれた名前。
ドキリとした。
同時に嫌な予感がした。
こういうときの樹は、“何か”、容易に聞き流せないような話をする。
それこそ、1年2ヶ月ほど前の、11月下旬のあの別れ話をした日のように。
感が騒ぐ。
気付かれぬようにそっと身構えた。
「でさ、シンガポール転勤、終わったんだよ」
そして、突然の話題変更に遭う。
「……でしょうね。目の前にいますもの」
「で、今度はフランスなんだ」
樹はテーブルの上で軽く両手を組む。
一方で私は、カランコロンという音が聞こえたのをいいことに、そっと、視線を観葉植物に隠れた出入り口に向けた。
「……また海外なの。アンタ、会社に嫌われてるんじゃないの」
「アホか。栄転だよ、栄転。今度はあっちの部署仕切るんだ、部長だよ部長」
31歳でフランス支社を仕切るなんて異例だぞ、と自慢げに口にする。
絵に描いたようなドヤ顔だ。
「それはそれはオメデトウゴザイマス」
心にもないことを口にして、チラッと腕時計を見る。
時刻は12時20分。
約束の10分をゆうに超えている。
早くオフィスに戻りたい。
そんでもって、コンビニのサンドウィッチでいいから腹の中におさめたい。
(寝癖を直すのに必死で泣く泣く朝ご飯を抜いたんだ、あたしゃお腹減ったよ)