月夜のメティエ
「隣のクラス?」

 美帆ちゃんが首を傾げる。
 ちょっとなー。この話はしたくなかったんだけど。これ以上聞かないでくれると助かるな……。少しマーコを睨んでみた。彼女はこっちを見てなかったけど。

「えー誰?」

 ほら、聞かれるじゃん。美帆ちゃんは興味津々だ。目が更に輝いた。うーん……。

「……よく知らない。見たことがある人だっただけだから。ちらっと見ただけだし」

 奏真の名前を出し、たまに会ってるなんて言ったら、騒がれるだろう。この場をやり過ごしたい一心で、あたしは嘘をついた。言いたくなかった。

「隣のクラスでピアノ弾ける人かー。誰だろう」

 黙ってて、マーコ。もう誰でも良いから。

「ふうん……」

 美帆ちゃんがそう言って、少し考える仕草をした。その時に別な子が「そういえば次の時間の数学ってさー」と声を上げたから、イチオンのピアノの話はそこで終わった。あたしはほっとして、目の前のおにぎりにかぶりついた。でも、なんだか食べた気がしない。

 別に常に約束をして第一音楽室で会ってるわけじゃなかった。連絡を取り合ってるわけじゃないし。ただ、あの音楽室で開かれる演奏会は、あたしにとっては他の誰にも触られたくないことだったから。

 ある冬の日だ。もうすぐ3年生になる頃。しばらくイチオンで奏真に会ってなくて、あのピアノが恋しかった。隣のクラスだとはいえ、廊下でたまに会うくらい。挨拶を少し交わすぐらいで、そこで立ち話をするようなことは無かった。廊下で会うっていうのも、そうしょっちゅうなわけじゃない。教室から出なければ、クラスが違うっていうだけで、会うことも無いんだから。
 なんでだろうね。不思議だね。あそこでの演奏会は、秘密にしておきたかったのかもしれない。奏真はどうか分からなかったけど、少なくてもあたしは秘密にしておきたかった。

 奏真が鍵を借りてここに来ないとあたしは入れない。ピアノの音が聞こえないイチオンの前の廊下でひとり、またぼんやりと窓の外を見ていた。

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