幻想
 と鳩葉。
「凄いもなにも、伝説です、レジェンドです」 
 鳩葉は興奮し、身を乗り出し、日本語と外来語を折り混ぜた。これは日常茶飯事に日本社会で行われていることで、要するに同じ意味ということ。それでも胡桃は大人の対応で、黙る。
「そういうのも嫌なんだ」
 と銀次。
「私は、あなたに憧れて、音楽を」
 どうやら鳩葉は、アーティストでもあるらしい。無名かアマチュアか。まあ、後者だろう、と胡桃は結論づける。でも、大人の対応で胡桃は黙る。それがやさしさでもあるから。
「僕はもう弾けないんだ」 
 銀次は左手の指先を光が反射する位置までかざした。胡桃は違和感に気づいた。むしろ今まで気づかなかった方が不思議だ。震えている、微かに震えているのだ。
「もしかして、弦が押さえられない?」
 と鳩葉は消え入りそうな声で言った。
「パーキンソン病」と銀次は言った。「簡単に言うと脳の病気だ。神経細胞が減少しているらしい。別に死にはしない。生きづらくなるだけだ。これが僕の今の現状なんだよ」
 その場にいる全員が無言だった。むしろ他に乗客はいないのではないかと思うほどに。
 胡桃は辺りを見回した。たしかに乗客はいるのだが、みんな眠っている。
「尊敬するフウさん。なら私達のプロデュースしてよ。才能を見いだすのが真の天才っていいます」
 鳩葉が沈黙の口火を開いた。
「面白いことをいうね」と銀次は言い。「一つだけ条件がある」と人差し指を一本立てた。
「なんですか?」
 と鳩葉。
「胡桃さんが僕の彼女になれば、だ」
 銀次は、笑みを見せた。鳩葉の視線が胡桃に注がれる。純粋無垢であり潤いを纏ったつぶらな瞳に、胡桃の答えは決定しているようでならない。なので、
「試用期間という名目でなら」
 と胡桃は応えた。
 鳩葉は拍手をし、銀次はフウと一息ついた。
『まもなく終点、赤城、赤城、終わりが始まり、赤城、赤城』
 とユーモア全快の車内アナウンスが流れた。


    四号車

 妊娠が発覚し嬉しさの反面、高校生の身分で育てていけるだろうか、と梨花は不安だった。迂闊だった。しかし、マモルはコンドームをしっかりとつけていたはずだ。もしかして、興味本意でゴムを外したのかもしれない。その考えを拭い去り彼女は頭を横に数回振った。
< 106 / 112 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop