幻想
「私も久々に言葉にしたもの。誰しも、たいへんよくできました、と言われたい、でも歳を重ねるごとに言われなってくる。どこかでみんな、助けを求めている。ねえ、梨花ちゃん。なんで人ってたくさんいるのに、みんな寂しそうなんだろ」
 なんだろう、忘れ去られた過去が不意に蘇ってくることがある。今がまさにそうだった。封印した、心の奥底に仕舞い込んだ忘れたい記憶。
 絹枝の顔を見た。どろっと茶光りした頬に、薄暗い目元。
 デジャブ。
 ああ、そうだ。梨花の母親も同じような顔をしていた。母は女を忘れられず、そうだ、そうだった。
「梨花ちゃん」
 その絹枝の優しい声音は梨花の意識を過去に飛ばした。


「梨花ちゃん」
 母が言った。名前は雅美。いつも知らない男を呼ぶ。狭いアパートの一室で、梨花が寝静まると、お酒と呼ばれるアルコール臭を風と共に運び、部屋を席巻させる。
「なあ、雅美、一発すかっとしようぜ」
「駄目よ。娘がいるんだから」
 まんざらでもなさそうだ、と母の声を聞いて梨花は思った。梨花は五歳になった。おそらく、大変の五歳と呼ばれる年齢の子供よりは精神年齢は大人びているはずだ。なにより、母と見知らぬ男の情事からの喘ぎ、お金にまつわる金銭感覚と耐性、そこで交わされる会話は梨花にとって新鮮であると同時に、汚辱にまみれた、世界だと思った。なので、幼稚園で先生を見る目も次第に変わっていった。
「先生、昨日セックスしたでしょ」
 梨花は比較的大きな声で言った。
 えっ、と先生はきょどり、顔を赤らめ、緊張からか唇を舌で濡らした。わかりやすい。もう一度、言おうか。もう一度、辱めを与えようか。五歳の梨花にとって、大人を困らせ、悩ませることは容易かった。
「なんで知ってるの?」
 先ほどまでの狼狽が嘘のようにしれっと応えた。まさかの切り返しに梨花は困る。
 が、「中?外?」と立て続けに攻めた。
「それは・・・・・・」
 と真摯な姿勢で対応しようとする先生に梨花は笑みの果汁が広がる。梨花の手には林檎がある。先生の実家が青森で仕送りという名目で送られてきたらしい。一口のみならず二口ほど食べたが、甘みと酸味が交錯し、口の中で唾液と混ざり、味に深みが増した。
「ねえ、先生」と梨花は林檎を一口噛み砕き、「他人の唾液ってどんな味?林檎?それともバナナ?」
「なんの話しをしてるの?」
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