幻想
 ヒヒッッと競走馬のような声を絹枝は出し、ハンカチに目を落とした。
「わからないの?」と梨花。
「さっぱり」と絹枝。
「本当、母親って息子のことを知っているようで何も知らない」
 梨花は不適な笑みを滲ませた。絹枝は席に備え付けられている小型のテーブルを広げ、そこにハンカチを置いた。
「どう?」
 と梨花は絹枝を急かした。人は急かされると、思考のスピードが早くなる。大概、急かされ、早急に結論づけた答えの先は、あまり思うようにいかないのが世の常だ。さて、絹枝はどうだろう。大人は子供よりも多くの事を経験し、それなりの知識と知恵もある。では、この場合の対応策はどうなのか、梨花は気になって仕方がない。
「もしかして」
 絹枝は頬をを手に当てた。大半の主婦がスーパーで食材を選ぶかのように。
「もしかして」
 と梨花は絹枝の顔を覗き込んだ。答えに到達しつつある表情をしている。いや、到達しているのか?
「マモルが?」
 絹枝は訝しげな表情を梨花に向けた。
「だとしたら、あなたはどうする?それでも才能がないって決めつける?」
 梨花の言葉に対して絹枝は無言だった。ハンカチの絵柄に見入っている。それもそのはずだ。梨花が、マモルから気軽に、「はい」と誕生日にプレゼントされたハンカチは芸術の域を超えていた。ヤマザクラの立体的なフォルムは、見事にハンカチに融合し、その空間だけに桜が舞うような世界に身を置くことができる。正方形大の左隅にヤマザクラが息吹いている。そして人間だけではなく、桜、も生きているのだと実感した。マモルは、生、を描く。たとえ言葉を発っすることなくても、内部の音に、声に、思考に、耳を傾ける。純粋たるマモルだから出来る技であり精神との融合だと、梨花は思った。
「心が動かされる」
 絹枝はハンカチの表面に弧を描いた。
「なにしてるの?」
 梨花は水鉄砲をしまい訊いた。
「『たいへんよくできました』って円を描きながら言ってるのよ。たしかに、母親として、勉強が一番、友達は二の次、恋なんて三の次、って言い聞かせてたわ。でも、子供は否が応でも成長するし、恋もする」
 絹枝は梨花を潤った瞳で射抜いた。
「たいへんよくできました、なんて久しく聞かない言葉ね」
 梨花は言った。
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