アイスブルー(ヒカリのずっと前)


鈴音は再び目を閉じた。
風が部屋を通り過ぎる。
時計の音が「ちくちくちく」となっている。


すると鉄門が開く音がした。


鈴音はハッとして目を開け、身体を起こす。
けれど期待した人物ではなかった。


庭先の太陽の下に、正明が立っていた。

真っ白な半袖シャツに、ベージュのスラックス。
黒縁の眼鏡の奥には、かつて愛した優しい瞳。


「やあ」
正明は手を上げた。


鈴音は予想していなかった訪問者にびっくりしたが、気を取り直して玄関先で正明を迎えた。


玄関の暗がりに入ると、正明はハンカチを出して額を拭った。


「突然訊ねてくるなんて」
鈴音は動揺していた。

「事前に電話をしたら、こないでくれって言われそうで」
正明は優しく笑う。
「あがってもいい?」


鈴音は軽くうなずくと、手でどうぞ、と示した。


正明は部屋に入るとぐるりと見回す。
「初めてきた」

「そうね」
鈴音は座布団を差し出すと、座って、と手で合図する。

「ありがとう」と頷くと、正明は座布団の上にあぐらをかいた。


鈴音は台所から冷えたお茶を持ってきて、お盆にのせたまま正明に差し出す。
正明はそのお茶を一気に飲み干すと、一息ついた。


「変わらないね」
正明は鈴音を見ると、そう言った。

「あなたも」
鈴音は正明の向かいに座ると、そう答えた。
「今日はどうしたの?」

「うん」
正明は気まずそうに下を向くと
「今日は非番だから」と言った。


正明は大学病院の小児科医師だ。
結婚していた頃、正明はとても忙しくほとんど家にいなかった。
鈴音は寂しい思いもしたが、正明の仕事を尊敬していた。



大好きだった。
おそらく今も好きだ。

正明の仕草ひとつひとつを、愛おしいと感じていた。
少し癖のある黒髪に、白髪が見えた。
離婚してから、痩せたかもしれない。


「いいところだね」
正明が庭を見て言った。

「うん」
鈴音は静かに頷いた。

「おばあさんとは、結婚式でお会いした。優しくて上品な人だったな。しっかりしていて」

「うん」
鈴音はもう一度頷く。


正明は自分の左薬指をしきりに触っている。
よく見ると、指輪の跡が残っていた。


「今日はどうしたの?」
鈴音は再び訊ねた。


正明は自分の左手を見下ろしてから、思い切ったように顔をあげた。


「やり直したい」
正明は胸のポケットから指輪を取り出した。


プラチナの、鈴音が出ていくときに置いて行った、結婚指輪だ。
お盆の上にそっと置く。


「やり直したい」
正明はもう一度そう言った。


鈴音は黙り込んだ。


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