ラストバージン
「……結木さん?」


いつもの駅で降りて改札口を抜けたところで、懐かしいような声音で名前を呼ばれた。


ふと浮かんだのは、榛名さんの顔。
確か、以前にもこんな風に呼ばれた事があった。


不安や緊張でドキドキと高鳴る胸の奥を深呼吸で窘め、ゆっくりと振り返る。


「あ、マスター……」


無意識のうちに抱いていた期待感は脆く崩され、だけど直後に小さな喜びが込み上げて来た。


「やっぱり結木さんでしたか。いやぁ、お久しぶりですね」

「はい。ご無沙汰しています」


ニコニコと笑うマスターは相変わらず穏やかな雰囲気を纏っていて、ぐずぐずとした私の心をそっと癒してくれる。


「しばらくお会い出来なかったので、寂しかったんですよ」


もちろん簡単に明るい気分になれるはずはないけれど、それでも彼の笑顔と声音に悲観的だった気分が和らいだ。


「ずっとお忙しかったんですか?」

「えぇ、少し……。最近は勉強会や講習に足を運んでいて、休暇でもほとんど家にいなくて……」


これは、本当の事。
仕事の日はともかく、休暇の日はつい榛名さんの事を考えてしまっている自分が嫌で、最近は以前にも増して積極的に勉強会や講習に参加しているのだ。

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