雨の日は、先生と

先生の家

そこは、思いのほかこじんまりしたマンションだった。
私の抱いていたイメージでは、一戸建てだったのに。


先生は鍵を取り出して、ガチャリと開ける。
なんだかその光景も、イメージと全く違った。


玄関は真っ暗で、先生が手探りで電気を点ける。


「いらっしゃい。」


「お、じゃま、します。」


家族はもう、眠ってしまったのだろうか。

ひっそりとした玄関で、なるべく音をたてないようにそっと靴を脱ぐ。


「どうしたの、泥棒みたいですよ。」


久しぶりに笑い声を立てながら、先生が言った。


「だって、先生。」


見回すと、私の言いたいことに気付いたようで、先生は笑うのを止めた。


「大丈夫です、笹森さん。ここには私しかいません。」


「え?」


――だって、先生結婚してるんだよね?

確かめるために先生の薬指を見るけれど、やはりいつものように金色の指輪が輝いている。


「ひとつだけ、約束してください。」


「はい?」


「好奇心を持つのは仕方のないことです。ですが……何も訊かないでください。」


そう言った時の先生の顔が、余りにも憂いに満ちていて。
私は何も言い返せなかった。


「いいですか?」


「……はい。」


頷くと、先生はにっこりと笑う。

そして、ためらうように視線を逸らした。


「笹森さん。」


「はい。」


「おいで。」


先生の後について、リビングに向かう。
きちんと片付いていて、生活感があまりない。
先生に促されて、二人掛けのソファーにぽす、と座る。


「そんなに緊張しないでください。もう、何も怖いことはありません。」


私の心に繰り返し突き刺さったとげを、そっと溶かしていくような声で先生が言った。


「おなかは空いていますか?」


小さく首を振る。


「じゃあ、紅茶がいいですか?ココアでもいいですが。コーヒーは眠れなくなるのでやめましょう。」


夢のように優しく、先生が語りかける。
何もいらない、何もいらないよ。
こうして先生のそばにいられたら。
一生、こうしていられたら。


「ココアにしましょうか。特製天野ブレンドを作ってあげますよ。」


スーツのまま台所に立つ先生を、手伝いたいけれど。
一度ソファーに沈めてしまった体を、起こすことはできなかった。
それにしても、“特製天野ブレンド”って……。


こんなにボロボロなのに、どうしてだろう。
先生といると、心が温かくなって。
笑いたくなる時もたくさんあって。


「ニャー」


その時、私の膝の上にしなやかなジャンプで三毛猫が乗ってきた。
突然のことに驚いて、声を上げそうになる。
そのネコのずしり、とした重みを感じていたら、いつか先生が明かしてくれた秘密を思い出した。


「あ、こら、たま。」


先生が慌ててやってきて、ネコを抱えて床に下す。
すかさず、また私の膝の上に戻ってくるネコ。


「困ったな。気に入られてしまったようですね。」


「ふふ。あったかい。」


ネコを撫でると、気持ちよさそうに目を閉じた。
なんだか、心なしか先生に似ている。
思わず抱きしめたくなってしまう。


「たまは私の家族ですから。」


先生が寂しそうな声で言った。


「さあ、出来ましたよ。“特製天野ブレンド”」


「ありがとうございます。」


先生から受けとったマグカップを両手で包む。
温かくて、涙が出そうになる。

何度も息を吹きかけて、そっと口をつけた。


「あ、」


「ね。」


先生はにっこりとほほ笑んだ。


「おいしいです。」


「でしょう?隠し味は、シナモンですよ。」


優しい微笑みを浮かべながら、先生が私の隣に座る。

これが罪だというなら、神様はなんて理不尽なんだろう。

私を救ってくれて、こんなに幸せな気持ちにしてくれる先生を。


「笹森さん。」


「はい。」


先生は、ココアを置いて私を見つめていた。
私も、なんとなくカップをテーブルの上に戻す。


すると、何の前触れもなく先生は、ふっと私を引き寄せた。

いつの間にか、私の身体は先生の腕の中にある。


「怖かったね。」


敬語を崩した先生の声が全身に響く。

気付くと後から後から涙がこぼれて、止まらなかった。

先生が、そっと背中を叩いてくれる。

そのリズムが心地よくて、私は子どものように泣きじゃくった。


「もう、大丈夫だ。」


幸せだった。
もう、先生が結婚しているとか、そんなことはどうでもよくて。
帰らなくてはいけない本当の場所があることさえ忘れて。

私は先生の腕の中にいた。


「ココアが冷めてしまいます。」


名残惜しく先生の温もりが離れていって、私はココアを手にとった。
止まらない涙と、ココアが混ざってなんだかしょっぱい。


先生を見ると、どこか遠くを見るような目をして、ココアをすすっていた。
その瞳には、私ではないだれかが映っている。

でも、それでもいいんだ。

もうどうだっていい。


「先生。」


「はい。」


「す、」


焦ったように手を伸ばして、私の口を優しく塞ぐ。


「約束に付け加えておいてください。それも……言ってはいけません。」


分かっている。
でも敢えて、言いたかったんだ。
こんなに先生が好きだから、言わずにはいられなくて。


「それを聞いてしまったら、私は君をここにおいてはおけなくなる。」


小さく頷くと、先生はよろしい、というふうに頷いた。


先生が好きで、好きで好きでたまらない。
この体も、この心も何もかもすべて、先生のものでいい。
私のものなんて、ひとつもなくたっていい。


先生さえ、そこにいれば。



「さあ、薬を飲んで寝ますよ。明日は学校はお休みしましょうね。」


先生に渡された水で薬を飲み下す。

そして、シンプルなベッドまで案内される。


「先生は?」


「……私は、ソファーで寝るので気にしないでください。」


「そんなこと!」


急いでソファーに向かおうとすると、先生は困ったように笑って、止めた。


「病人をソファーで寝かせるほど、私は悪い先生ではないですよ。」


そう言われると、返す言葉がない。
渋々頷いてベッドに入ると、先生が布団をぽんぽん、と叩いた。


「おやすみ。」


「おやすみ、なさい。」


先生の微笑みが深まる。

どうしてこの人は、こんなに優しいんだろう。
私以外の生徒が困っているときも、こんなふうに優しくするのだろうか。

そんなことを考えているうちに、睡魔が押し寄せてきて。

先生のベッドで寝ているとか、そんなことさえ実感する間もなく私は眠りに堕ちた。
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