雨の日は、先生と
第10章 さよならの向こう側

八つ当たり

家の玄関のドアを開けると、何やら楽しげな音楽が聞こえてきた。

先生の家で流れていたのと同じ、クリスマスソングだ。

また涙が溢れてきて、私はどうしようもなかった。


隠れるように階段を上る。



「唯ちゃん!帰ってきたんだろ?おいでよ!」


「……いいの。」


「唯ちゃん。」


「ごめんなさい。」


「唯ちゃん、どうしたの。」



マエゾノさんから顔を背けて、階段を駆け上がる。

今は、そっとしておいてほしかった。

ひとりで、この悲しみに浸かりたかった。

先生との思い出に浸かることが、私に許される唯一の先生との関わりだから―――



「唯ちゃん!」



それなのに、私を追いかけて来たマエゾノさんは、強引に私の手を引いて、階段を下った。

整理のつかない心のままで、私は結局、明るい音楽の流れる居間に、連れてこられてしまった。


明るい場所で、涙でぐしゃぐしゃな顔を見られるのが嫌で、私はうつむいていた。



「せっかく早く帰ってきたなら、一緒にクリスマスのお祝いができたらいいと思って。」



明らかに、私の様子に気付いているはずなのに、触れようとしないでマエゾノさんが言った。

それは、きっと気遣いなのだろう。

でも、人の気遣いを素直に受け止められないほどに、私の心は冷え切っていたんだ。



「どうしたの、唯。」



「お母さん……。」



意外だった。

母に気遣われたのなんて、何年振りだろう。


ふと見回すと、クリスマスツリーに、食べかけの豪華な料理が並んでいた。

母の顔は上気していて、とても楽しそうだ。

マエゾノさんは、紛れもなくこの壊れた家庭を、修復しようとしてくれている。



だけど、それは分かるけれど―――



悲しくて。
明るい音楽も、ツリーも、料理も、すべてが私を悲しくさせて。



「ねえ、お母さん……。どうして、私を産んだの?」



「「え―――」」



母とマエゾノさんの声が重なった。

ひどいことを言っているのは分かっている。

ただの八つ当たりだって、分かってる。



「どうして?お母さん、いつも言ってたよね。あなたさえいなければ、って。あなたがいるからって。」



空気が凍ったのが分かった。

母も、そんな母を知らないマエゾノさんも、息を呑む。



「私だって、私だって生まれてきたくなかったよ。……こんなに悲しくて、嫌われて、愛されることのない人生ならっ!!」



言い放って、そのまま階段を駆け上がった。

自分の部屋に飛び込むと、ベッドに突っ伏して、声を押し殺して泣いた。



先生と過ごした短い日々が。

別れ際の涙が。

父のいた頃の幸せな家庭。

父の自殺現場を見てしまったこと。

そこから壊れた家庭。

マエゾノさんのこと―――



色々なことが、走馬灯のように心をよぎった。

この夜に、すべての悲しみが凝縮しているような気がした。



もう二度と会えない人が増えていく。

マエゾノさんだって、いずれ私の目の前から消えてしまうんだろう。



天野先生は、やっぱり嘘つきだ。





「人は、一生に同じ分だけ優しさを受け取るんですよ。もし笹森さんが、これまでにたくさん涙を流してきたのなら、笹森さんはこれからもっとたくさんの、優しさを受け取って生きていくんです。」



「愛されるということの意味を、教えてあげましょうか。」





嘘つきだよ、先生。

私は、先生に愛されたの?

一瞬でも先生は、私のこと―――




好きだったの?




いつまでもいつまでも、涙は止まらなかった。

このまま涙に溺れて、息が出来なくなってしまうのではないかと思うほど。


いっそ、この冷たい夜に、気付いたら息が止まっていたのなら。





その日の夜遅く、何時だか分からなかったけれど。



部屋のドアが静かに開いた。




「唯……ごめんね。」




震える母の声が、聞こえたような気がした―――
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