【完】そろり、そろり、恋、そろり
――ピンポーン、ガチャ


チャイムの鳴る音と、ドアが開く音がほぼ同時に聞こえてきた。こんな事を出来るのは、ここの鍵を持っている拓斗君しかいない。コンロの火を止めて、彼を出迎えようと玄関へと移動した。


……あれ?


今日、何度目の違和感だろうか。視界に飛び込んできた拓斗君はなんだかいつもと違う。私に気付いた彼は、なぜか玄関に立ったまま、私のことをじっと待っている。


不思議に思いながら、彼の違和感の正体を探しながら、少しずつ彼に近づいていく。


分かった、何が違うのか。何もかもがいつもと違う。


いつもは優しく笑ってただいまと告げる口元は、固く閉ざしたまま。何かに堪えるように表情までもが固い。そして、いつもなら自宅一度置いてくる仕事用の荷物も持ったままで、そのままここに来た事が覗える。


「おかえりなさい……きゃっ」


正面に立ちそう告げたと思ったら、腕をガシっと掴まれ引き寄せられ、力強く抱きしめられていた。気付けば私は彼の腕の中。いつの間にか拓斗君の持っていたはずの荷物は、足元に転がっている。


……何かあったのだろうか。違和感だらけの彼に驚いて、不安も覚えながら、何も言わずそっと彼の背中に手をまわし、私もぎゅっと抱きしめた。


そうしないと、拓斗君が今にも消えてしまいそうに感じた。





私の首筋に顔を埋めるようにしている拓斗君が震えている事に気がついた。


「どうしたの?」


「ごめん、このまま……お願い」


震えがちな声で彼は言う。拓斗君が、泣いている。


何があったのか分からないけれど、彼がこうしていたいのならと思い、そのままの姿勢で動かなかった。彼の気の済むまでこうしていよう。背中にまわしている腕に少しだけ力を込めた。私より大きいはずの背中が、今はとても小さく感じた。
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