【完】そろり、そろり、恋、そろり

彼の想いと彼女の想い side:T

――ガタっ


考えるよりも先に、体が動いていた。座っていた椅子から勢い良く立ちあがり、彼女の傍へ。そして、ぎゅっと抱きしめた


欲しくて欲しくて堪らなかった言葉。彼女も……麻里さんも、俺の事が好き。


「ありがとうございます」


抱きしめたまま、しばらく彼女の存在を確かめていた。そして、やっと出た言葉は、たったこれだけ。他に言葉は見つからない。


麻里さんは俺の腕の中でじっとしていたけれど、俺の言葉に反応してかそっと背中に腕を回してくれた。より2人の距離が縮まって、彼女の体温がじわじわと伝わってくる。


あー、どうしよう。俺まで涙が出てきそうだ。


「……」

「……」


2人して無言のまま、動きもせずに、しばらくの時間が経過した。衝動的に動いてしまった身体だけれど、今の状況を客観視できるくらいに少しずつ冷静になってきた。


頭がはっきりとしてくると同時に、俺の心はどんどん落ち着きを失くしてきている。近すぎる距離に、ドキドキドキと鼓動は早くなり、明らかに感じる緊張。


自分で起こした行動に、自分で困り果てるなんて……情けなく思った。


それにしても、この静かな部屋も心臓に悪い。俺の心臓の音まで彼女の聞こえてしまうんじゃないかと、心配になってきた。


焦る俺を知ってか知らずか、急に麻里さんがクスクスと声を出して、笑い始めた。


「……麻里さん?」


「ごめん、ごめん。拓斗君、緊張してる?」


俺の胸にそっと寄りかかってくれていた頭を離して、俺を見上げる彼女と目が合った。柔らかく笑いながら、彼女は意地悪に尋ねてくる。


そんな彼女になんでばれてしまったのかと、更にオロオロと焦りを見せてしまった。


「だって、ここすごくドキドキいってる」


俺の胸に温かな掌がそっと添えられた。格好悪いな、と苦笑が漏れてしまう。


「聞こえた?」


「聞こえたというか、感じたと言った方が的確かな。だってこんなに近いんだし」


それもそうだよな。ピッタリと接しているから、俺の鼓動が伝わってもおかしくない。それはそれで恥ずかしいけれど。


「俺って格好悪いですね」


「そんなことないよ。私だけじゃないって分かって安心した。私も緊張してるから」


俺の胸に宛てていた手を、今度は自分の胸に移動させた。


俺だけが緊張しているんじゃないと、彼女が教えてくれたお陰で、格好つけたいと見得を張ろうとしたことを後悔した。


もっと純粋な気持ちで、今という時間を楽しみたい。

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