氷の卵
そんなある朝。
店の外に並べた鉢植えに、水を遣っていた時だった。


「相原さん!おはよ。」


その聞き覚えのある低めの快活な声に、私は手を止めて、ゆっくりと顔を上げた。


「高梨さん……。」

「あ、覚えててくれた?嬉しいなあ。」


嘘だと思った。
目の前に、もう二度と会えないと思った人がいる……。


「この間はごめんね。いきなり、夜に頼み込んで。とっても助かったよ。」

「あ、いえ……。」

「お仕事の邪魔だったかな?じゃあ、」

「あの、高梨さん!」

「ん?」


そう言って振り返った啓は、優しく微笑んでいた。

時が止まりそうなほど、美しい微笑みで。


「あの、どうして。」

「え?」

「どうして、またここに?」

「ああ。うち、この近くなんだ。いつも一本向こうの道を通って通勤してるんだけど、たまにはこっちに来るのもいいかな、と思って。素敵なお花屋さんもあるしね。」

「そうなんですか。」


納得した。
あの日と同じように啓は、ぴったりした紺のスーツを着ている。
出勤なんだ。


「高梨さん、どこに勤めていらっしゃるんですか?」

「県庁だよ。」

「県職員ってこと?」

「うん。まだ平社員だけど。」

「すごい……。」

「じゃあ、失礼。明日はもっと早起きしようかな。」

「え……、」


その言葉の意味を訊く前に、啓は颯爽と走っていった。
なんだか爽やかな風が吹き抜けていくような、そんな人だと思った。


持っていたじょうろの水面が揺れる。


気付けば手だけでなく、心も震えていた。
落ち着かなきゃ、と思うほど、反対に胸がドキドキする。

私は水やりをあきらめて、いつもの紅茶を飲むことにした。
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