氷の卵
思い出したくないことが、脳裏をよぎる。


彼の温もりや、声や、愛しかったすべてを思い起こすと同時に、私の心を切り裂くような痛みが走る。

そして私は、その痛みが致命的な傷を与える前に、さっさと心の扉を閉じる。

そうやって生きてきた。

そうしないと、生きられなかった。


どうしても、傷を掘り起こしたくなる夜は、花の名前を繰り返し唱えて、覚えることに専念した。

どうしても誰かに触れたいときは、みどりさんの胸で泣いた。


みどりさんは私にとって、神様みたいな存在であり、母のような存在でもあった。


みどりさんを失ってもなお、彼女と同じことを、決まった時間に行う。
みどりさんのメモを見ながら、花を仕入れたり、花束をつくったり。
そうすることで、彼女との時間を共有していた。

私にはみどりさんがすべてだった。


そんな穏やかな日々に、新しい風を吹き込んだのは啓だ。
どうして?と思うようなことを繰り返して。
そして私の心を、動かしてしまった。


機械的に生きていたかったんだ。
感情に溺れるなんて、もうこりごりなんだ。


でも、でも。


啓は、誰にも似ていない。
彼にも似ていない。
そして、知らずの間に心の中にすっと忍び込んでいる。


もう遅かったんだ。
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