氷の卵
啓は本当に、毎日欠かさずお店にやってくる。
もう教えるものがないほど、啓は花の名前を覚えてしまった。
そうなると、なんだか物足りなくて、私はどうしていいか分からなくなる。


「啓、もうお花の名前も紅茶の名前も、啓は全部知ってる。」

「そっか。そんなに長い時間、雛に教えてもらっていたんだね。そういえば、雛に会ったのは秋だからね。」


季節はいつのまにか、春になろうとしていた。


「でも、雛。」

「ん?」

「季節が移ろえば、ここに並ぶ花だって変っていくんでしょ?」

「うん。そうだね。」

「そしたら、一年中勉強だね。」


心臓がとくんと跳ねた。
これからもずっと、こんな穏やかな日々が続くものだと、錯覚してしまうような啓の言葉だった。


「そうだよ。春も夏も、まだこれからだもん!」

「楽しみだな。」


啓は心から嬉しそうな顔で笑った。
私は嬉しかった。
本当に本当に嬉しかったんだ。


でも、冷静な心でふと思った。

長い時間啓と共に過ごしていても、私は啓のことをほとんど何も知らない。

どこに住んでいるかも、血液型も星座も誕生日も、何にも知らない。
それを知ったからどうということはないけれど、啓は啓なのだけれど。

でも、もし急に、明日の朝啓が来なかったとしても、私はどこにも探しに行けない。

風邪をひいて寝込んでいても、看病しに行ってあげることはできない。


啓がふと、どこかに行ってしまいそうな気がして、私は怖かった。
そして消えてしまったら、私と啓をつなぐものは、何一つとしてないのだ。


「どうしたの?雛。」


気付くと啓が心配そうに横顔を覗き込んでいた。


「ううん。」


首を振ると啓は安心したように笑った。


「ねえ、啓……。啓って……」

「ん?」

「啓って、何型?」

「僕?A型。」

「そうなんだ!」


やっと一つ、啓のことを知った。
でも、知れば近づけるわけじゃない。
その空しさに胸が苦しくなって、それでも私は無理矢理笑顔を作った。


「じゃあ、そろそろだね。行ってらっしゃい!」

「うん。行ってきます。」


笑って手を振る私と、振り返す啓。
遠くから見たら、まるで夫婦みたいに見えるはずだ。
そのことに気付いて、余計に切なくなり、私はため息をついた。


まだ何も起きないうちから、先のことばっかり考える癖。

この悲しい癖は、私の傷が癒えていない証拠なのだ。


啓の背中をどこまでも見送りながら、私はただ、寂しさに胸を震わせていた。
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