氷の卵
本当にその日は、店を閉めた。
花たちでさえ私の心を癒してはくれない。
こんな私に、人の心を動かす花束なんて作れないと思った。


ベッドの上に仰向けになる。
目を閉じると、目じりから涙がすーっと零れ落ちて行った。


昔の恋人のことを、久しぶりに思い出す。

私の前から突然消えることで、何もかもを、空っぽにしてしまったあの人。

思い出さないように、心にふたをしてきた。

でも、今日は無理だった。

啓のことを考えるほど、なぜかあの人のことが心をよぎって。




啓のように格好がいいわけではないけれど、啓みたいに温かい人だった。
大学時代に出会って、それから別々の仕事に就いて。
それでも、子どもみたいに無邪気な二人だったんだ。


一緒にいろんな場所に行って、二人で大地を踏みしめた。
何を見てもどこに行っても、幸せしかなかった。
どこにも行かなくても。


あの日だね。
君が突然消えてしまったのは。
理由は分からなかったけど、もう二度と帰ってこないことだけは、はっきりと分かった。
あのひんやりした冬の早朝に、テーブルの上に鍵を見つけた私は、呆然とするよりほかに何もできなかった。


あなたがいなくなってしまったことへの喪失感。
当たり前の未来が、当たり前じゃなかったことへの恐怖。


確かに二人、愛し合っていたはずだった。
少なくとも私は、彼を愛するという気持ちがその先消えてなくなることがあるなんて、全く信じられないほどに、彼を愛していた。


それは私の独りよがりな感情だったのだと、認めたくなかった。




悲しすぎて、衝撃すぎて、私は彼にもらった指輪をネックレスにして日々を過ごしていた。
彼は死んだのだと思い込むことにした。
そうすれば、思い出の中の彼はいつでも、一点の曇りもない目で私を見つめていられるから。




でも、そんなの嘘だと、自分自身が一番気付いていて。




二人で幾度となく眺めた海に、指輪をそっと放ったのは、別れからどれくらい経った頃だったろうか。
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