氷の卵
その日の夜、部屋のドアが軽くノックされた。


私は思ったより落ち着いて、ドアを開けた。
なんだか本当にみどりさんになったみたいな気分だった。


「はい。」

「みどりさん。」


驚いた。

啓はまだ私のことを思い出していない。
では、さっきの涙は何だったのだろう。
啓は一体どこまで思い出したのだろうか。


「僕、思い出しましたよ。」

「何を?」

「僕が愛していたのは、確かにあなたではなかった。……香織です。僕の好きだった人は、香織です。」


私は微かにうなずいた。
心の準備はできていたけれど、こんなふうに改めて啓の口から聴くと、やっぱり切なかった。


「香織は、先天性の病気だった。そして、僕の目の前で……。」


啓はうつむいて言葉を切る。
私は何て言っていいか分からずに、啓の顔を伏し目がちに覗き込んでいた。


「でも、でもみどりさん。」

「はい。」

「今の僕がみどりさんのことを愛しく思う気持ちは、変わりませんでした。」


啓は顔を上げてきっぱりと言う。
私は、私は何とも返事が出来ずに、うつむいた。


「……高梨さんが、仮に今私のことを好いてくれているとして……、」

「はい。」

「その気持ちが、どこかほかのところからくる気持ちだと、そうは思いませんか?」

「ほかのところ?」

「例えば、一つ屋根の下で暮らしているからとか。もしくは……。いえ、前に私はこの店のかつてのオーナーに助けられて。その時彼女に、尊敬や憧れを越えた、なんかもう恋みたいな気持ちを抱いたことがあるので。」

「違います。」

「どうしてそう言い切れますか?」

「僕のことが嫌いなら、どうぞそう言ってください。……そんなに必死になって、僕の気持ちを否定することにどんな意味があるというのですか?」

「違う!」


思わず叫ぶように言ってしまった。
私ははっと口をつぐむ。


「高梨さん、私のこと覚えてないから。高梨さんと過ごした日々が私にとってどれほどキラキラしたものだったか。でもそういうこと、あなたは何にも覚えてないから。だから簡単に信じられるわけないです。高梨さんが私のこと好きだなんて。そんなこと、簡単に信じられない!」


啓は目を見開いて私を見つめていた。

私は目を逸らす。

そして、ドアを内側から閉めた。


思い出せないのは啓のせいじゃないのに、啓を責めてしまった。

啓だって、突然押し寄せてきた現実が、苦しくて痛くて、それなのに私のことを好きだと言ってくれているのに。


でも私が、私が耐えられなかった―――


気付いたら扉にもたれて泣いていた。


啓のことが好きだから。

だからこそ、こんな中途半端な気持ちで啓と向き合うのは嫌で。


うん、とうなずいてしまったら、啓は私じゃない私を愛することになるから――
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