氷の卵
それからしばらく、なんとなくぎくしゃくした関係が続いていた。


でも、そんな日々に突然終止符が打たれる。
それは、ある日の午後だった。


風邪気味の私の代わりに、啓が店番をしていた時。
一人のお客さんがやってきたのだ。


「あの、花束を届けてほしいんです。」

「では、お届け先の住所と、お名前、それから送り主のお名前をこちらの紙に。」

「あの……。」

「はい。」

「送り主の名前は書かなくてもいいですか?」

「え?」

「無記名で、贈ってほしいんです。」


その会話が聞こえてきたときに、私ははっとして身構えた。
案の定、啓は目を見開いたまま、動作を止めている。


「分かりました。」


横から割って入って、私が花束をつくる。

その間も、啓は虚空を見つめてなにやら考え込んでいた。


お客さんが帰った後、啓は無言で部屋にこもった。

私はそんな啓の様子を心配しながらも、これでやっと啓が過去と向き合えることにほっとしてもいた。

正直、このままの啓に好かれているのは落ち着かない。


もちろん、ずっと啓のことが好きだった。
どんな啓だって受け入れる覚悟はある。

でも、でも違うんだ。


過去を失った啓に、ただ近くにいるというだけの私が好意を寄せるのは、啓を騙していることになるから。


夕ご飯を持って、啓の部屋をノックする。

返事はなかった。

念のためドアノブを回すと、あっけなくドアが開いた。


「高梨さん……夕ご飯を、」


見ると、啓はベッドに突っ伏したまま、背中を震わせていた。

思い出したんだと、すぐに分かった。

夕飯を置いてそっとドアを閉める。

これでもう、啓は私のことを忘れる。

みどりさんとしての、私のことを。


不思議と悲しさはなかった。
ただ、啓が悲しみから立ち直ることを願っていた。


それだけで、良かった。
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