氷の卵
夜道を歩きながら、男性はふと私を振り返った。


「若月さんは、いつからあのお店を?」

「3年前からです。」

「あれ、もっと前からじゃないんですね。」

「どうしてですか?」

「なんだかもう、貫録があるって言うか。慣れている感じがしたので。」

「3年かけて、やっと少し自信がついたみたいです。この仕事を続けていこうって。」

「ふうん。偉いなあ。」

「あ、あの……。」


あの時私は、どうしてあんなことを言ったのか、今でもよく分からない。


「私、若月じゃないんです。若月って言う名前は、この店の元のオーナーの名前で。」


みどりさんの苗字で呼ばれることは、私の誇りだったのに――


「え?そうなんですか。それは失礼しました。じゃあ、あなたは?」

「私は……相原です。相原雛(あいはら ひな)。」

「雛さんかあ。可愛い名前だね。」


そう言って、微笑みながら振り返った彼は、パタパタと腕を広げて見せた。


「ぴよぴよ。」

「ふふ、嫌だ。やめてくださいよ。」

「ごめんごめん。ああ、そうだ。僕は、高梨啓(たかなし けい)といいます。よろしく。」


差し出された手を、戸惑いながら軽く握った。

冷たくなった私の手と、温かい彼の手が触れ合う。

その瞬間に私は思い出していた。

かつての恋人の、温もりを。


「ちょっと怪しすぎますよね、僕。」

「え?」

「だって、こんな遅くにお花屋さんに駆け込んで、花束を届けてくださいだなんて。しかも無記名で。」

「事情があるんだなって、思いました。」


ふと、驚いたような顔をして彼が私を見つめた。


「聞かないんですか?」

「え?」

「その事情を、僕に尋ねないんですか?……いや、こんな遅くにお仕事を引き受けさせちゃったものですから。」

「お客さんの事情は、わざわざ尋ねませんよ。聞いてほしくない場合だってありますからね。」

「そっか。やっぱり相原さんはプロだね。」

「プロ?」

「僕だったら聞いちゃうから。こんなに怪しい客がいたら、何なのって聞いちゃう。」

「高梨さんは、素直なんですね。」


気付いたらそんなことを口にしていた。
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