あの猫を幸せに出来る人になりたい

おまけ9

 日曜日の夕方。

 花は、今日の犬と猫の世話をすべて終え、裏口から台所へと戻ってきた。そこでは母親が夕飯の支度を始めている。父親は日曜日に駆け込んできた急患の診療を無事終えたらしく、手を拭きながら隣の病院に続いている扉を開けて戻ってきた。

 花はちらと時計を見た。もうすぐ6時になるところだった。

 ここ数日、彼女は日付や時間ととても親密な関係にあった。気が付くと、時計を見たりカレンダーを見ていた。早く過ぎて欲しいような、そうでないような奇妙で不思議な時間。

 もう、帰ってきたかな、楓先輩。

 何の震えも伝えてこない携帯を、花はポケットから出した。ここ数日、それはとてもよく震えてくれた。

『花さん、1日に何枚くらいなら、写真送っても、だ、大丈夫?』

 慎重でゆっくりめの言葉を、最後に少しだけ転ばせながら、倉内楓は帰宅途中に花にそう問いかけた。分かれ道の直前の出来事だった。

 理由を聞くと、彼は「修学旅行でいい景色があったら花さんに送りたいから」と答えた。そう、二年生は翌日から修学旅行に行くことになっていたのである。

 花は、パケット定額には加入していない。携帯を彼女に持たせる上の親の方針だったし、料金も毎月きっちりチェックされている。そして、写真は──とてもパケット料がかかるのだ。

 だから彼女は、「一枚、くらいです」と困った顔で答えた。倉内からの写真が欲しくないわけではないが、親からの大目玉は欲しくなかった。

 そんな花の表情を見て、倉内は少し考えた顔をした後、あっと表情を少し明るくした。「じゃあ」と彼が思いついたいい案を、まごつきながらも説明してくれたのだ。

 そして、倉内楓は。

『清水寺に到着した。有名なあの舞台の両側を目にまぶしいほどの緑の木々が包んでいた。修学旅行の僕たちの他にも観光客が本当に多くて、舞台から遠くの景色を見られる時間はほんのちょっとだったけど、ちゃんと目に焼きつけた。下は見なかった。僕は飛び降りる予定はいまのところなかったから、見ないことにした。見ておけばよかったと後で後悔することになるかな。その時はもう一回来ることにする。紅葉の時期がとても綺麗だとガイドさんが言ってた。僕の名前に関係する季節でもあるから、その時にもう一回来たい。今度は、こういう集団の旅行とかそういうのじゃなくて。花さんにも見せたいよ』

 写真という映像ではなく、最近ブログで鍛えている言葉を駆使して、花に「観光名所文字ツアー」を決行したのである。

 花の携帯を例にすれば、写真一枚のサイズ約50KB。清水寺のメールを約300文字と換算した時、そのサイズは600バイト。写真と桁をそろえると、写真は1枚50,000バイト、文字は1メール600バイトである。

 倉内は、分かれ道のところで足を止めて、花にも分かりやすくファイル容量について熱心に説明した。写真は1枚しか送れなくても、文字であれば8回送ってもその1/10のパケットで済む、と。

 写真は帰ってきてゆっくり見せるから、それまで僕の文字でいいかと聞かれて、花は笑っていいのか困っていいのか分からなかった。せっかくの修学旅行なのだから、同級生たちと思う存分楽しんでくればいいのに、と。どうせ、花も来年行くのだからと思うと、少しばかり遠慮しかける心が動かなかったわけではない。

 けれど、倉内が自分から誰かにそうしたいと働きかける心は、とても良いものに思えたし、それが大事な友達という称号をもらえた自分宛だと思うと、正直すごく嬉しかった。

 そのおかげで花はここ数日、ずっと地元にいながらも、倉内楓の言葉と共に修学旅行の文字ツアーに参加していた。

 普段のメールではない、ブログを書いているような語り口から綴られる倉内の目に映る別の場所の景色。そこに来年自分が行くのだとふと思った時、花は面白いことを思いついた。彼の旅行メールに、すべて「保護」をかけて別のフォルダに移したのだ。

 壊れない限り、花はこの携帯をずっと使うことにしている。少なくとも、高校にいる間は。ということは、来年花が旅行に行く時も、当然これを持って行く。

 今年、倉内が遠くにいながら花を旅行に連れて行ってくれたのと同じように、来年の花は、去年の倉内を連れて旅行に行けるという算段だった。

 それは彼女にとっては、ささやかでいてとても気長で面白い計画のように思えた。

 そんな倉内からの旅行記も、「これからそっちに帰るよ」というメールを最後に鳴りを潜めた。

 授業中は電源を切っていなければならない携帯を、休み時間にチェックするのは楽しかったし、週末に入ってからは何をするにもずっとポケットに入れていた。

 色鮮やかな写真ではないけれど、携帯から出てくる自分では決して表せない倉内の文字と、その中の彼の気持ちを、花は一生懸命追いかけた。

 そんな日も、もう終わりだ。

 いまごろ倉内は、家に帰りついただろうか。フルールと感動の対面をしているだろうか。

 知りたいことや聞きたいことは、今となってはもはや日常のものばかり。あえてメールを送るまでもないことだ。だが、震える携帯に慣れてしまったせいか、それが少し花にとっては寂しかった。

 そんな時。

 ピンポーンと家のチャイムが鳴る。
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