三十路で初恋、仕切り直します。
9 --- 無神経に効く泉質はありますか

「泰菜。着いたぞ」

その声にうっすら目を開けるとと、助手席に座る自分を覗き込む法資の顔がすぐ傍にあった。薄暗い中でも二重のはっきりとした目がとてもきれいな形をしているのが分かる。すごい目力だなぁとぼんやり見ていると。


「汚ねぇ顔。口からよだれはみ出てんぞ」


冷ややかな言葉に一気に目が覚める。

「うわっ、え、やだ……!!」

袖口でごしごし口元を拭いながらはっと気付いた。


「そうだ、ごめん!いつの間にか寝ちゃってたみたいで。運転してもらってたのに……」


思わぬ失態だった。


海老名のサービスエリアで軽く夕食を済ませて、名物だというパンを二つ買って戻ってきたところまでは覚えているけれど、そこから記憶がふっつり途絶えている。裕美のお祝い会で飲んだワインのアルコールも抜け気っていなかった所為もあるだろうが、それにしても随分寝てしまったようだ。

助手席で眠りこけるなんて大人としては許されないマナー違反をおかしたことにへこみそうになるが、法資は別段怒っているような様子はない。



そういえば自分の住んでいる家の住所を教えていないのにどうやって到着出来たんだろうと考えながら視線を車外にめぐらすと、思わぬものが目に入る。車を停めた場所から少し離れたところに見慣れぬ建物が聳えていた。外観から察するに宿泊施設のようだ。


「……ここどこ?」
「温泉」


ライトアップされた建物の側面には屋号らしい「花湯民-Hanayutami-」の看板が掛かっている。

そうそう、静岡は「温泉の都」と呼ばれるだけあって熱海や伊東をはじめたくさんの温泉地があるんだよなぁとのんきに考え掛けて------。


「お、温泉ッ?!」
「疲れたんだよ、運転久々すぎて。だからちょっと休憩」


ごくさらっとそんなことを言って、法資は運転席でうん、と伸びをする。


「さっきサービスエリア寄ったときに情報誌に載ってたんだよ、24時間営業の温泉って」

そういってその雑誌を泰菜に差し向けてくる。

宿泊も出来て、けれど温泉だけの利用も可能、宴会場やカラオケなども備えてある複合型の温泉施設らしい。法資のいうとおり深夜の利用や予約なしの利用も可能と書いてある。


「空いてりゃホテルの部屋もあるし、休憩出来る時間制の貸切部屋とか露天風呂もあるんだとさ」

そういって先に車を降りて、自分と泰菜の手荷物を取り出す。

「泊まるかどうかはともかく、とりあえず風呂だ、風呂。おまえも入るだろ?」


入りたいか否かと訊かれたら、勿論入りたい。いくら暖房のよく利いた車内にいたとはいえ、こんな寒い季節にほっこり体の芯からあたたまれる温泉は魅力的だ。それに世間一般の女子同様、泰菜は温泉がだいすきなのだ。


「どうしたんだ?着替えがないのか?替えのパンツくらい売店で売ってると思うぜ、だっせーのがな。それが嫌なら俺の貸してやろうか?」


「新品のがあるぞ」と冗談なのか本気なのか言ってくる。泰菜が躊躇ってる理由が替えの下着の有無だと本当に思っているのだとしたら、どれだけ自分本位で無神経な男だろうか。


「丁重にお断りします。誰が法資のなんか」
「まあないならないで穿かないって選択肢もあるな」

「ありません!っていうか何言ってんのよ馬鹿!いちおう着替えはもう一式持ってきてあるから心配御無用ですっ」
「ならとっとと行こうぜ」


法資は泰菜の分まで荷物を持って先にすたすたと歩いていってしまう。仕方なく、泰菜は自分勝手なその男の後についていった。




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