ホットケーキ続編のさらに続編【玉子焼き】
10.限界
 触れることを許された指先は、まだ時に躊躇う。大沢はそっと湖山の頬に触れて湖山の長めの髪をその耳に掛けた。それからまた頬に触れて、湖山の頬を、あるいはその頬に触れた自分の手を、見守っていた目が湖山の目を捉えると、その手を離して弱々しく微笑んだ。

 湖山が感じた無力感をきっと大沢も感じている。伝えても伝えても伝わらない。人間が作り出した言葉という道具の限界を、諦めと苛立ちが綯い交ぜになる胸の中で感じている。そしてもちろんそれは、言葉の限界だけではなくて、お互いの生き方とか生き様とかいうものの違いだと分っている。

 自分よりも年若いこの男の目のどこかに老成したような光が湛えられているように見えるのは、今日昼間に吉岡から聞いた男の面影に大沢を重ねてしまったからなのだろうか。いつか、ついえていく命の限界を思うのは今日昼間に吉岡から聞いた話のせいなのか、それとも、大沢と自分の生き方の違いを年の差のせいにしようとしているからなのか。

 命の限界などいまはまだ現実味もないこの身体を抱(いだ)きたいとこの男が言うのなら、いくらだって捧げようと思う。この身体がここにある限り。だから、自分に触れることを躊躇ったりする必要などないのだと伝える手段を、湖山は探る。

 膝立ちになって大沢に一歩半近づいた。細い身体を胡坐をかいた大沢の膝の上に預けると、大沢は少し驚いた顔して、それから微笑んで、ゆるりと足を解いて湖山の背中に手を置いた。壊れ物を抱くように小さな子どもを抱くように、優しい手をその背に置いた。大沢が湖山の胸に頭を預けるのと、湖山が大沢の肩に頭を預けるのが殆ど同時だった。



 ぞくぞくと足の指の先から、湖山の身体の中を駆け巡る。得体の知れない生物が大沢の指先から、大沢の舌先から生まれて、湖山の身体の中に送り込まれる。その生物が、大沢が触れたその部分から湖山の身体の中を駆け巡って湖山の中に大きな塊を作りその塊をぎゅっと握りつぶそうとしている。

 「ね、吉岡にフェロモン出てるって言われてたね」
 「う…ん…?ん…」
 「触られた?」
 「はぁ?」
 「吉岡に、触られた?」
 「何でだよ…?触られる訳ないだろうが。」
 「これ以上フェロモン出たら困る。みんなが湖山さんを狙う。」
 「馬、鹿か…」
 「だから止めようか…な…」
 「んん──ッ、い、いいよ、止めても。俺、困らないよ、したがるのはいつもそっちだろ?」
 でも、湖山の身体はその言葉に抗うように仰け反った。大沢がそう?と意地悪く笑って探って行く指先に力を込めた。
 「他の誰にも湖山さんの側にいて欲しくない。吉岡にも。誰にも。俺以外の…誰にも」

 もう、答えることもできない程荒い息を重ねて湖山は昇りつめる。指先を伸ばして掴もうとするその階から見るこれまで見たこともない景色。その景色を誰と見たいかと訊かれたら即座に大沢と答えるだろう。でもこの景色を見せてくれる男は湖山が掴もうとして伸ばすその身体を抱き、その指先を慈しみ、その階をどこまでも支えることで彼をその天辺へと誘っていく。いつかその天辺から見ることができるなら、大沢と二人で──そう願った一瞬、湖山の内側に燻っていたものが弾けて、湖山の視界を遮るように広がった。



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