ホットケーキ続編のさらに続編【玉子焼き】
4.言わないこと、言えないこと
 歯を磨いていると玄関のドアの鍵が開く音がした。鏡の自分と向き合って、でも今湖山が見ているものは鏡に映ってなどいない。ヒタヒタと足音が近づいて、鏡に大沢が映った。湖山はそれを認めて振り向き歯ブラシを咥えたまま、おかえり、と声を掛け、
「今日は来ないと思ってた」
 と続けた。 ただいま、と答えた大沢はそれ以上何も言わなかった。そう?と短く答えて洗面所に入って来ると湖山の横から手を出して「先にいい?」と訊きながら手を洗い、うがいをして洗面所から出て行った。
つけっぱなしのテレビはまだクイズ番組を垂れ流していて、大沢はキッチンカウンターから腰を屈めるようにして手を動かしながらそれを見ていた。リビングに入って来た湖山をチラリと見て
 「ごはん食べて来たんだね?」
 と訊いた。
 「ううん」
 「なんだ、歯、磨いてたから食べてきたのかと思った。なら、一緒に食べる?」
 「俺の分もあるの?」
 「あるよ。うどんだけど、いい?」
 少し食べたい、と答えた湖山に、うん、分かったと頷いて大沢はそこで少し何か考えるように黙った。それから
 「柔らかめがいい?」
と、湖山を見ずに訊いた。 大沢は本当は硬めの麺が好きなのだった。湖山は自分を見ない大沢に小さく「うん」と答えた。

 冷えた汁に浸して食べるうどんを啜る。テレビから流れているクイズ番組にときどき一人で答える。大沢はそんな湖山の隣で、時にテレビを見たり、時にぼんやりとうどんを啜り、胡坐の足を組み替えては湖山の足に当たって「あ、ごめん」と謝った。所在無げな大沢に掛ける言葉を見つけることが出来ずに湖山はなんでもない顔をしてテレビとうどんと大沢の様子を伺っていた。

 何か言いたくて、でも、適切な言葉が見つからない時ほど不安になることはない。以前なら、こんな沈黙ですら愛おしかった。その沈黙がすべてを伝えていたからだ。伝えられない言葉を伝えていた。そしてその言葉を口に乗せることは出来ないとお互いに知っていて、だから、その沈黙を何よりも愛しくも思えた。辛くても、そこにある言葉にならない言葉の存在を知っているだけで。

 伝えてもいいのだ、そうなった今の方が、なぜこんなに自分を苛むのだろう。白々しく聞こえはしまいか、とその言葉を口にするタイミングをはかるような小賢しい事をする。

 それはもしかしたら大沢だって同じなのかもしれない。
 一瞬過った考えは、でも、湖山を救いはしなかった。もしも、大沢がいま湖山が伝えたいと思う言葉をその胸のうちに秘めているならば、湖山よりも先に大沢が言うべきなのだと何の理由もなく思う程、湖山はただ恋に落ちているのかもしれなかった。





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